神倉山の歌
熊野速玉大社の古宮とされる神倉神社が鎮座する神倉山(かみくらさん)。
神倉山は熊野三所大神が熊野において最初に降臨したとされる聖地。そのため神倉神社は熊野根本大権現とも呼ばれました。
『続古今和歌集』に神倉山が登場する歌が1首あります。
『続古今和歌集』より1首
くまのにまうで侍ける時、かんのくらにて太政大臣従一位きはめぬる事を思ひつづけてよみ侍ける /入道前太政大臣
み熊野の神くら山の石だたみ のぼりはててもなほ祈るかな
(訳)熊野に詣でたときに神倉にて、臣下として朝廷の最高の地位につくことを思い祈り続けて詠んだ歌。
み熊野の神倉山の石畳を登り終えてもまだ祈っているのだ。(巻第七 神祇歌 740)
入道前太政大臣
入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿、西園寺公経(さいおんじきんつね、1171~1244)。
源頼朝の妹婿一条能保の娘全子を妻とし、鎌倉幕府と親しくしたため、承久の乱(承久3年、1221年)の際には後鳥羽上皇によって幽閉されますが、事前に乱の情報を幕府に密告して幕府の勝利に貢献。
神倉山での祈りが叶い、貞応元年(1222年)に太政大臣、貞応2年(1223年)に従一位に昇進。臣下として朝廷の最高の地位にのぼりつめ、絶大な権勢をふるいました。61歳で出家。
新三十六歌仙のひとりで、『新古今集』以下の勅撰集に114首入集。藤原定家(1162~1241)の妻は公経の姉で、定家は公経一家から大きな庇護を受けました。
神倉山の石畳
神倉神社は、神倉山の山上にある「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨石群を御神体とし、そこに社殿もあります。そこまで行くには神倉山の麓から「神倉山の石畳」を登らなければなりません。
公経の歌には「神倉山の石畳」とありますが、あれは石畳というより「石段」です。
自然石を組み合わせて積み重ねた「鎌倉積み」の、見る者を圧倒(!?)するほど急な石段です。
この鎌倉積みの石段、初めて見る人はそのあまりの急勾配におそらくビビります。私も初めて見たときはビビりました。
怖いです。転んだりしたらどこまでも転がっていきそうです。2度め、3度めになると慣れて平気で登れるようになりますけれど、最初は怖いと思います。
538段の石段は、初めての人でも10分くらいあれば登れると思いますが、高所恐怖症の人は足がすくんで登れないかもしれません。地元の人は子供でも年配の方でもスタスタ登っていきますが。
石段は最初から最後まで急なままというわけではなくて、急なところは上り口から中の地蔵までの二百段まで。そこまで登り切れば、後は緩やかになります。
ただ、上りより下りのほうがもっと怖いので、そのことは頭に入れておいてたほうがいいかもしれません。
この石段は、源平合戦における熊野の功労を賞して、建久4年(1193年)に源頼朝が寄進したものと伝えられています。鎌倉時代の貴重な遺物として知られているそうです。素晴らしい石段です。こんな石段、きっと他にはない、と思います。
ぜひ登って神倉神社に参拝してくださいませ。
(てつ)
2004.9.28 UP
2020.2.6 更新