西園寺公経の熊野関連の歌
小倉百人一首より パブリック・ドメイン, リンク
西園寺公経(さいおんじきんつね。藤原公経。1171~1244)。源頼朝の妹婿一条能保の娘全子を妻とした親幕派の公家。 承久の乱に際しては後鳥羽院の蜂起計画を事前に察知し、幕府方に密告して幕府方の勝利に貢献。乱後は絶大な権勢を誇り、太政大臣にまで至りました。61歳で出家。
新三十六歌仙のひとりで、『新古今集』以下の勅撰集に114首入集。藤原定家(1162~1241)の妻は公経の姉で、定家は公経一家から大きな庇護を受けました。 その藤原定家撰の『百人一首』の96番めが西園寺公経の歌。
百人一首 96番
花さそふあらしの庭の雪ならでふりゆくものはわが身なりけり
(訳)嵐が花に落花を誘って吹き、庭に花びらを雪のように降らせる。その降りゆくさまを見ていると、古りゆく(ふりゆく。年老いてゆく)のは、花よりも我が身のほうなのだなあ。
権勢を振るい栄華を極めた公経ですが、やはり老いには叶わないのだなあというような実感がこもった歌です。
さて。 西園寺公経の熊野関連の歌を3首。『続古今和歌集』より1首。熊野懐紙より2首。
『続古今和歌集』より1首
くまのにまうで侍ける時、かんのくらにて太政大臣従一位きはめぬる事を思ひつづけてよみ侍ける /入道前太政大臣
み熊野の神くら山の石だたみ のぼりはててもなほ祈るかな
(訳)熊野に詣でたときに神倉にて、臣下として朝廷の最高の地位につくことを思い祈り続けて詠んだ歌。
み熊野の神倉山の石畳を登り終えてもまだ祈っているのだ。(巻第七 神祇歌 740)
熊野速玉大社の古宮とされる神倉神社が鎮座する神倉山(かみくらさん)。 この神倉山での祈りのご利益か、西園寺公経は臣下として朝廷の最高の地位にのぼりつめました。
神倉山の石畳
神倉神社は、神倉山の山上にある「ゴトビキ岩」と呼ばれる巨石群を御神体とし、そこに社殿もあります。そこまで行くには神倉山の麓から「神倉山の石畳」を登らなければなりません。公経の歌には「神倉山の石畳」とありますが、あれは石畳というより「石段」です。というか、もの凄い石段です。
熊野懐紙より2首
熊野懐紙1:正治二年十二月三日 切目王子和歌会「遠山落葉、海辺晩望」 より2首。
詠二首和哥/参議左近衛中将藤原公経
遠山落葉
たつた山ふかきこずゑのいろをだに あらしに見することのはぞなき
(訳)竜田山の深い梢の色をさえ嵐に見せる言葉はない(?)。
海辺晩望
ながめやる心のすゑはくれにけり うらよりおちにうらづたひして
(訳)眺めやる心の末は暮れてしまった(?)。浦から遠くへ浦伝いに行って。
61歳で出家。
新三十六歌仙下の勅撰集に114首入集。藤原定家(1162~1241)の妻は公経の姉で、定家は公経一家から大きな庇護を受けました。
(てつ)
2005.9.8 UP
2020.2.6 更新