七越の峰(七越峰、七越峯とも)
熊野本宮大社旧社地の東、熊野川対岸にあり、熊野と吉野を結ぶ修験道の山駈けの道「大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)」が走る七越の峰。
標高262m。大峰山より数えて七つめの峰(みね)にあたるといわれ、そこから七越の峰と呼ばれるようになったと伝えられます。
「みね」とは神様の山。「みね」という言葉は「み」と「ね」から成り、「み」は「み熊野」の「み」と同じで、神様のものであることを表す接頭語です。「ね」は山頂、山の頂上のことで、「みね」は、その山が神様のものであることを表しています。その山が神域、神様のものであるときに「みね」と呼ばれました。
七越の峰の山頂から西に突き出た丘陵の尾根に大峰奥駈道が走るのですが、その丘陵は「備崎(そなえざき)」と呼ばれ、そこからは多数の経塚が発見されています。
経塚とは、仏法が滅んだ後の世のために、経典や仏像を地中に埋納し、弥勒菩薩が出現するという五十六億七千万年後のはるか未来にまで保存する目的で造営された仏教遺跡のことです。
ですから、きっと「備崎」という地名も、仏法が滅んだ後の世の弥勒菩薩出現に「備える」という意味でつけられたのでしょう(「崎」は山の突き出たところという意味)。
備崎には経塚群の他、役行者(えんのぎょうじゃ。修験道の開祖)が千日修行したと伝えられる窟もあり、またかつては備宿(そなえのしゅく)と呼ばれる宿(しゅく。修験者が祀った神仏の宿る場所)もありました。
『山家集』から1首
熊野へまいりけるに、七越の峯の月を見て詠みける
たちのぼる月の辺りに雲消えて 光重ぬるななこしの峯
(『山家集』下 雑 1403)
(訳)たちのぼった月のあたりには雲も消えて、光を重ねたように月が冴えわたっている七越の峯であることよ。
和泉・河内・紀伊三国の国境にある七越山のことだという説もありますが、熊野本宮大社旧社地の東方すぐ近くに七越の峯があるので、夜、本宮に参拝した折に詠んだ歌だと取るのが素直な読み方だと私は思っています。
本宮では、いったん昼間、音無川を徒渉し、足下を濡らして宝前に額づいた後、夜になってあらためて参拝奉幣するのが作法でした。
大峰奥駈け
熊野から吉野まで連なる大峰山系は、役の行者が開いたとされる修験道の根本道場であり、大峰山系の南端である熊野は中世、修験道の一大中心地でした。
平安初期までは吉野の金峯山が修験者の修行の中心地でしたが、よりよき霊地を求めた修験者が大峰の山中に分け入り、南へと南へと進み、熊野への道が開かれたものと思われます。
温暖多雨で植生豊かな熊野の陰鬱な照葉樹林に修験者達たちはおそらく濃い霊気を感じたのでしょう。次第に修験者たちが熊野に集まるようになり、中世には熊野が修験道の一大中心地になりました。
大峰山系を縦走することを「大峰奥駈け」といいますが、奥駈け道の道中には「七十五靡(なびき)」といわれる75ケ所の行場が設けられています。その靡の一番は熊野本宮の証誠殿です。
本宮が大峰奥駈けの出発点であり、七越の峰の麓には山伏の宿坊が建ち並んでいたといいます。
ちなみに吉野から熊野へ駆けるやり方もあり、それを逆峯(ぎゃくぶ)といい、遅れて大峰に入った真言宗の醍醐寺三宝院系(当山派)の山伏が行いました。
熊野から吉野へ駆けるやり方は、順峯(じゅんぶ)といい、もともと熊野を支配し、大峰奥駈けを先に始めていた天台宗の園城寺・聖護院系(本山派)の山伏が行っていました。
しかし、現在では「順峯・逆峯」という言い方とはまるで逆に、逆峯が一般的な大峰奥駈けのやり方になっています。
近世以降、紀州藩の宗教政策によって熊野三山が神道化し、熊野修験が衰退してしまったのが原因です。近世以降は天台・真言の両派とも大峰には吉野から入るのが一般的になってしまいました。
(てつ)
2003.3.11 UP
2021.4.26 更新
参考文献
- 新潮日本古典集成49『山家集』 新潮社