室町時代に北九州の有力武士麻生氏が勧請
御祭神:伊弉冊尊(いざなみのみこと)
速玉男命(はやたまおのみこと)
事觧男命(ことさかおのみこと)
石碑(1)
由来 熊野神社は全国に数千社をかぞえる。 いずれも紀伊の国の熊野神社(熊野三山 熊野三所権現ともいう)を総本山とする。 このことは、霊験あらたから熊野権現に対する国民的信奉の広さを如実に物語るもので、延喜七年(西暦九〇七年)宇多法皇の熊野御幸を初め、歴代皇室の行幸啓は実に百二十余り度に及び、貴族階級は勿論、武家・一般庶民の尊宗も極めて篤く、更に鎌倉幕府の庇護を得て、室町時代には伊勢参宮を凌ぐほどで、俗に"蟻の熊野詣"とも言われた。 しかも御師(おし)先達の制度まで出来て、熊野の山伏などが各地の信者と結びつき、伝道や勧進に勤めた為、次第に熊野末社建立の分布を全国に広めて行った。 当神社の草創もこのような熊野信奉の歴史的背景と無縁ではなく、たまたま室町時代の中期に、麻生氏が竹の尾城に居を移し、その守神としてこの地に熊野権現を祭祀したのがそもそもの起源で、その後幾多の変遷を経て今日に至ったものである。 |
石碑(2)
明治百年記念 熊野神社改築の由来 当下上津役地区は個数六拾余戸の一寒村にすぎなかったが、昭和参拾壱年筑豊電鉄開通に伴い、周辺一帯次々に住宅用地が造成され、急速に発展し都市化してきた。 たまたま熊野神社社有地参町弐反五佰貳拾四歩に対しても団地造成のため拂下げられたいとの要請がなされていた。当時神社はかなり荒廃し、尊崇の念もうすらぐのではないかと懸念される程であった。 時恰も明治百年に当るので、之を記念にするため氏子一同相集まり相謀り、社有地を処分し之を資金に充て熊野神社の大改築を行ったのである。 |
(大門さん)
No.1446
2011.4.28 UP
2019.12.7 更新