およそ100度に及ぶ上皇の熊野詣
熊野の名が広く知られるようになるのは、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。「御幸」とは上皇・法皇・女院の外出。天皇の外出は「行幸」といいます。
熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇で、907年のこと。それから80年ほど間をおいて、今度は花山法皇が992年に詣でています。しかし、どちらの熊野御幸も単発だったため、熊野信仰が爆発的なブームを起こすことはありませんでした。
花山上皇のときからほぼ百年後、1090年、白河上皇(1034~1129)が熊野を詣でます。この白河上皇がじつに9回もの熊野御幸を行います。
白河上皇の度重なる熊野御幸が、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなりました。
白河上皇の9度の熊野御幸以降、以下のように熊野御幸が行なわれました。
■熊野御幸を行った上皇の名とその回数 | ■熊野御幸を行った女院の名とその回数 |
・宇多法皇(1) ※907年の宇多法皇から1281年の亀山上皇までの374年の間におよそ100度の上皇による熊野御幸が行われました。熊野御幸の数は資料により異なります。 |
・待賢門院(12) ・美福門院(4) ・上西門院(1) ・建春門院(4) ・八条院(2) ・七条院(5) ・殷富門院(4) ・修明門院(11) ・承明門院(1) ・陰明門院(1) |
これだけ多くの熊野御幸はありましたが、天皇が熊野を参詣したことはありません。熊野「行幸」はこれまで1度もなされたことがありません。あったのは熊野「御幸」のみ。熊野参詣は、権力と富と自由を手に入れた上皇だったからこそ、可能だったのです。
天皇は朝起きてから夜寝るまで、様々なしきたりに規制され、多忙を極め、自由な行動などできませんでした。しかし、上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持ちながら、何ら法的な根拠を持つ地位ではないがゆえに自由を享受することができました。そのため、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせずに意のままに政治を行うことができたのです。
それゆえ、熊野「御幸」も可能だったのです。自由な行動を許された上皇だからこそ、熊野を参詣することができたのです。
しかし、なぜ熊野だったのでしょう。京都から往復1ヶ月もかけてなぜわざわざこんな辺鄙なところまで来たのか。その理由ははっきりとはわかりませんが、熊野が山伏にとっての聖地になっていたことが大きな要因のひとつであっただろうと思います。
上皇を熊野に連れてきたのは山伏でした。
天皇略系図
白河天皇から御鳥羽天皇まで。茶色の数字は歴代。赤い数字は熊野御幸の回数。
(てつ)
2008.10.6 UP
2019.7.24 更新
参考文献
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』戎光祥出版