大正初期に熊野社を合祀
横浜市青葉区荏田町の剱神社社誌(現地石碑)に熊野社合祀の記述がありましたので投稿させて頂きます。
※ 同じ荏田町の熊野社との関連性の有無が気になっています。
社誌石碑
『剱神社社誌』 (現地石碑より)
新編武蔵風土記稿は当社について曰く
「村の中央字榎木谷にあり、剱明神と号す。当所の総鎮守なり。本地不動の像、今は別当観福寺に安置せり、本社に上屋設く云々」また伝説に曰く「昔、陸奥国より炭を商うもの鎌倉へ往来して、鍛冶のもとへ、かの炭を売ること年久しければ鍛冶も、かの商人が来ることを謝して己が作りたる刀一口を贈れり、商人よろこびて、これを携へ国へかえらんとしてここをすぎ、泉谷の辺りにとどまりて路の疲れをしばし休めんと憩いしに、喉のかれたりしかば、ありあう泉を掬して呑けるに酒に酔いしごとく、覚えず倒れ臥したりしを側なる松の木の上より大蛇ねらいよりて呑んとす時に、
携えたる刀自ら抜き出て蛇を惨殺しけるにそ、かのもの危うき命をたすかりしとなん、よりて剱を祀りて剱明神と号す云々」と、この伝説は八俣の大蛇退治の伝説に類似し草薙剱を彷彿せしめるとともに、祭神を素戔嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている。
かつて当地には、宿谷戸赤城社、小黒谷戸神明社、同八幡社、柚木谷戸熊野社、渋沢谷戸十二社の五社の谷戸宮が鎮座し、四谷戸が年番にて祭礼を執行う常とした。
その後、大正三年にこれら四谷戸五柱の大神を当社に合祀し、同十一年、当社は、神饌幣帛供進社に指定されたのである。
現存する拝殿は明治二十七年に、奥社は昭和四十六年に各々建立されたものである。
鳥居
階段
手水舎・手水鉢(文化九年に奉納されたようです。側面から)
境内の様子
境内からの眺望(港北ニュータウン方面)
周辺は谷戸の雰囲気が未だ少し残っているようでした。
(御由緒・石碑の設置に感謝致します。)
(瀬音さん)
No.1799
2015.1.16 UP
2020.1.17 更新