後白河法皇が山麓に勧請、そのときから新那智山今熊野観音寺に
Neoさん
2004年2月1日参詣
新那智山今熊野観音寺
新那智山今熊野観音寺の本堂
京都の東山にある他のお寺も同様なのですが、町の喧騒からほんの少し山の中に入っただけで、嘘のような静けさです。東大路から「泉涌寺道」を約10分、泉涌寺の塔頭寺院の前をいくつか通り過ぎ、左に曲がると今熊野観音寺の境内です。地図を見るとそれほどでもないのですが、行った感じは「どこまでも続く鬱蒼とした森」のようです。その中に比較的こじんまりと堂塔が並んでいます。本堂は威圧的な感じが全くなく、親しみの持てる雰囲気です。
今熊野権現社
今熊野権現社は境内の東南の角に稲荷社と並んで、お祀りしてあります。
今熊野観音寺縁起
このお寺は、草創の縁起に熊野権現が登場します。
天長(824~833)の頃、東寺で修行していた弘法大師が、東山の山中に瑞雲がたなびいているのを見られ、不思議に思われてこの地に足を運ばれると、白髪の老人に出会いました。その老人は大師に1寸8分の十一面観音像と1個の宝印を与えられて、「此処は観世音菩薩有縁の地であるから、観音様をお祀りして、末世の衆生を救われるように」といって立ち去ろうとしましたので、どなたかたずねると「熊野権現である」といい残して南をさして消えてゆきました。
大師は早速嵯峨上皇にこのことを報告し、勅旨を奉じて一寺を建立せられ、ご本尊十一面観世音菩薩に不動明王、毘沙門天の脇侍を配して祀られたのが観音寺のはじまりです。
永応年間には後白河法皇が山麓に熊野権現を勧請し、このときお寺の山号を新那智山と号し、この地を今熊野と名づけられました。それ迄ここは東山観音寺といわれていましたが、この時から今熊野観音寺と称せられることになりました。
当時は月の輪山一帯に広大な境内を持ち、現在の本堂は奥の院巡礼堂に過ぎなかったということです。東大路沿いにある「新熊野神社」とは、おそらく隣接していたのでしょう。鎌倉時代にできた泉涌寺が皇室の菩提寺として栄えるのと対照的に、観音寺の寺域は縮小し、現在は泉涌寺の塔頭寺院の一つになっています。
(参考文献:小林茂著『西国33ヵ所巡拝』ナンバー出版・1986)
(Neoさん)
2004.2.19 UP
日照院さん
稲荷社と熊野権現社
熊野権現社
(日照院さん)
2004.2.23 写真追加
(Neoさん&日照院さん)
No.205
2004.2.19 UP
2004.2.23 更新
2020.7.16 更新
参考文献
- 小林茂著『西国33ヵ所巡拝』ナンバー出版・1986