熊野社の霊地に開かれた真言密教の道場
(旧射水郡大門町水戸田)
真言宗高野山派 熊野山 密蔵寺 縁起
密蔵寺は天暦10年(956)、定実和尚によって創建されたと伝えられている。空海によって高野山が開かれてから140年を経た平安中期のことである。開基定実は、武蔵国住人と記されているが、その生い立ち、僧暦、当地巡錫の事情などは明らかではない。寺地のある熊野山中には、古くから人々が信仰した熊野社が鎮座していた。この熊野社の霊地に詣でた定実は、一夜霊夢を感じ、真言密教の道場を開いたと同寺由緒が伝えている。
(大門町町史より)
熊野神社という名ではありませんが、熊野信仰の中の熊野信仰、富山県射水郡大門町水戸田にある熊野山密蔵寺にいってきました。
入り口には水戸田稲荷神社があります。
ここでも、熊野と稲荷はくっついていました。高岡の熊野神社も稲荷社といっしょになっている場合が多いです。
参道入り口に「密蔵寺」の銘の立派な石碑。寺橋という小さな橋を渡りしばらく歩くと長い石段があり、そこをのぼるとお寺の門にたどりつきました。
かつては、立派な伽藍だったそうですが、今は周囲は畑や民家です。
石段脇には、去年の台風の被害で倒れた杉の木が多数そのままになっていました。
密蔵寺のとなりには、「匠の里」という陶芸施設があります。その窯のひとつは、土地の字名をとって熊野窯といっています。
ここは、古墳時代からすでに焼き物が行われていたそうで、瓦生産を中心に窯業がさかんでした。窯業と熊野信仰は、つながりがあるのでしょうか。
南郷台地の背後、金山丘陵の山なみに連なる熊野山中の木立ちに、伽藍の配列も整った山岳仏教を象徴する熊野山密蔵寺は、平安中期の天暦10年(956年)定実和尚により創建された、真言宗高野山金剛峰寺派の流れを汲む古刹です。
安置仏には平成2年町文化財に指定された高野山派の胎蔵界大日如来像、観音立像、唐金釈迦誕生仏、藤原期作と推定される毘沙門天、室町期作の上品阿弥陀如来像、薬師如来像などがあり、創建の古さを物語っています。
密蔵寺観音堂に安置されている聖観音像は、身丈5寸5分(16.9cm)白壇立像です。仏像の箱書には、奈良の仏師「鞍作鳥作」と記されています。仏具類は、高岡市二上山にあったとされる養老寺より移転されたものだと伝えられています。また、仏殿の丈六(4.8m)の不動明王は、体内には徳川家康秘仏1体と仏師悲願の999体とが納め、千体不動明王と称せられています。
密蔵寺近隣の大門町二口の二口熊野社と櫛田神社の秋祭りでは、火渡り神事が行われます。火渡り神事は、火によってけがれを焼き払うという不動明王信仰に基づく神仏混交のもので、山伏によって伝えられたといわれています。
同じ火渡りでも二口は熊野形式、櫛田は立山形式といわれていますが、どちらも似ていて判別しがたいものです。
熊野山密蔵寺には、かつて熊野社が祀られていました。密蔵寺の近隣には藤巻の地名があり、紀州熊野の地名との関連を想起させます。また、二口の熊野神社は別名「熊野新宮」と呼んでいます。慶長14年、前田利長によって高岡町が開町されると水戸田熊野山にあった熊野社は、高岡に移転になり鎮守とされました。
ですから、高岡関野神社の出自は大門水戸田の熊野社、今の密蔵寺の場所というわけです。二口熊野神社は、熊野の神が高岡へ引越しするときに休憩所として使用された場所に記念として社を設けたのが始まりだと言い伝えられていますが、水戸田の熊野社とは、紀州熊野に習って本宮・新宮のような関係だったのかも知れないと思います。
水戸田から見た二上山
水戸田から見た立山連峰
長兵衛さんのHP「室屋長兵衛~日本の食文化を支える味噌・醤油のご紹介~」はこちら
(長兵衛さん)
No.401
2005.5.12 UP
2020.2.4 更新