もと浜の宮王子
那智の浜の近く、那智駅から徒歩5分ほどのところにあるこの神社は、熊野三所権現(家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神)を祀ることから、熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ)と呼ばれ、また、元「浜の宮王子」であったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわしゃ)とも呼ばれます。
この神社の隣には補陀落山寺(ふだらくさんじ)というお寺があり、神仏習合の形態を今に残しています。
熊野詣が盛んだったころには、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となっていました。那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれています。
渚の森
浜の宮王子前にあった森は「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森でした。現在はもう森はありませんが、大きく立派な数本の楠がかつてそこに森があったことを教えてくれます。
むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいずらむ
(『新古今和歌集』 衣笠内大臣)
摂社に丹敷戸畔命、三狐神
熊野三所大神社には摂社として、丹敷戸畔命(地主の神)・三狐神(食物の神)・若宮跡(浜の宮王子跡)が祀られています。
丹敷戸畔命
丹敷戸畔命
丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)とは、『日本書紀』における神武天皇の東征の折の記述に登場する人物で、
天皇はひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(またの名を丹敷浦)に至られた。そこで丹敷戸畔という者を誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。
と、登場してすぐに神武に殺されてしまう土豪の女酋長です(丹敷戸畔命の「戸畔」とは、女酋長の意だと考えられています)。
詳しいことはまったくわかりません。謎の人物です。
ちなみに、那智駅に隣接してある温泉の名は「丹敷の湯」といいます。そこで潮垢離ならぬ湯垢離をして那智山に向かわれてもよいでしょう。
三狐神
三狐神
また、三狐神(みけつかみ)も、食物の神とされていますが、謎めいた神様です。
もともとの「みけつかみ」とは、たしかに食物を司る神であったのでしょう。「御饌津神」と書き、「御(=尊称)饌(=食物)津(=の)神」で食物の神を意味します。
しかし、キツネのことを古語で「けつ」というため、「みけつかみ」が「三狐神」のように誤解され、その神は人々の意識のなかで、キツネの神に変容したものと思われます。
「御饌津神」はまたの名を稲荷神といい、「御饌津神」が「三狐神」になったために稲荷神は狐を使いとするようになったとの説があります。
三狐神がどのような神であるのか、私にはわかりません。しかしながら、「狐の神」というからには、おそらく辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)という「狐の王」になんらかのつながりがあるように思います。
辰狐王、菩薩となった白毛の狐の王。またの名を茶吉尼天(だきにてん)。
茶枳尼天は、元はインドの、裸体のまま天空を自由に飛翔し、人間の肝を食らい、生き血をすする恐るべき女神でした。それが日本では白毛の狐の王と一体になります。
また、平安時代以降の神仏習合により、狐を使いとする穀物神・稲荷神の本地(本体)は茶枳尼天だとされます。
三狐神は、御饌津神・稲荷神・辰狐王菩薩・茶枳尼天などの神仏と複雑に絡み合っているように思いますが、よくわかりません。
玉置神社の三狐神
奈良県十津川村玉置山にある玉置神社には、三狐神が摂社として祀られていました。
玉置神社の摂社、三柱神社は、古くは三狐神と称せられ、俗に稲荷社と呼ばれ、熊野地方の稲荷信仰の要の神社として古くから信仰を集めていたそうです。
御神徳は商売繁盛、五穀豊穣、大漁海上安全、悪魔退散。とくに狐憑きに陥った人から狐の霊を除霊することにかけては霊験あらたかであったようです。
昔は人に狐が憑くことがしばしばあり、本宮町辺りからも狐を落としてもらいに玉置山まで参ったといいます。
『玉置山権現縁起』によると、三狐神は「天狐・地狐・人狐」で熊野新宮の飛鳥(現在は阿須賀と記される)を本拠とし、その本地は極秘の口伝だということです。
縁起には、玉置山に祀られていたとおぼしき「天狐王」像の姿が書き記されているそうです。その姿は、正面は観音、右は天狐面、左は地狐面の三面六臂。さらに足も六本あり、しかもそれは鳥足であるという異様なものでした。そして、この本尊の本地は(本地は極秘の口伝とする一方で)聖天、または茶吉尼天であると記されています。
(てつ)
No.74
2001.6.3 UP
2001.7.10 更新
2001.7.27 更新
2020.6.10 更新
参考文献
- 宇治谷孟『日本書紀(上)全現代語訳』講談社学術文庫
- 中沢新一『悪党的思考』平凡社
- 山本ひろ子『変成譜』春秋社