後白河法皇の勅命で社殿を建立したと伝わる熊野神社
(旧塩山市熊野174)
御祭神
伊弉册尊・速玉男命・事解男命・忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊
御由緒
社伝によると、大同2年(807)紀伊熊野社から勧請されたという。その後、後白河法皇の勅命により社殿を建立。文保2年(1318)・寛政3年(1462)12月に社殿の造営が行われ(宝永2年「熊野神社由緒書」熊野神社文書)、応仁元年(1467)には武田信長らにより本殿が再興された(同年12月19日「棟札銘」当社蔵)。その後天文18年(1549)にも造替が行われた(同年6月29日「棟札銘」甲斐国志)。
一熊野権現 熊野村ニ鎮座ス本村及西広門田 山村 西原四ヶ村ノ産土神也御
朱印社領弐拾八石四斗余社地千四百拾四坪神主宅地八百坪供僧(神宮寺ト云)
寺内弐百九拾坪(古ハ巫顕十戸アリシカド今廃スト云)本社ヨリ一ノ鳥居二至
ル凡百五拾三歩行樹道ヲ挟メリ又社北二三ツ山ト云アリ社記云大同2年紀州ヨ
リ勧請其後後白河法皇勅シテ規矩ヲ紀州熊野山二取リテ御建立アリ伊弉再尊
早玉男命 事解男命 忍穂耳尊 瓊々杵尊・彦火々出見尊ヲ祀ルト云今本殿六
所並列ス拝殿 廊架 参籠所 鐘楼 一鳥居 二鳥居 神門等アリ其造営修復
ノ知ルヘキモノハ文保二年 寛正三年 応仁元年 天文十八年近クハ寛文三年
地頭小幡又兵衛願主ニテ造替ス棟札皆存セリ古文書ニハ永禄二年(巳未)三月
廿七日信玄禁制書 天正四年七月廿九日勝頼禁 等アリ宝物ニハ飯綱画像 刀
八毘沙門画像(共二信玄寄附ト云)渡唐聖像欹器図(共二勝頼寄附ト云)棒六
本(御朱印棒ト云)アリ天正十一年末四月十八日熊野 於曽 広門田(カワダ)
栗原ノ内ニテ弐拾九貫六百五拾文ノ社領御寄進アリ其ヨリ以来御代々ノ御朱
印数通ヲ蔵ム○明賀宮 神門ノ東御朱印地内ニアリ下宮ト称ス 鵜葺草葺不合
尊ヲ祀ルト云 七月七日九月九日本社ヨリ此二神幸ス 神主土屋出雲「甲斐國志」より
平成15年の秋に塩山市の熊野神社の氏子さんと熊野で出会い、そのご縁から塩山市教育委員会の栗原様のご協力をいただいて御好意で資料を送っていただきました。
「甲斐国 社記・社寺」第一巻掲載の「社記由緒書」によると、こちらの熊野神社境内には「発心門社」がお祀りされています。
熊野古道五体王子のうち「切目王子」の名は島根県の「石見神楽」や愛知県の「花祭り」の中にみられますが、「発心門」の名が冠された御社は珍しいのではないかと思いました。
ご協力いただいた皆様、ありがとうございました。
(栗原さん&そま)
No.274
2004.11.1 UP
2021.11.2 更新
参考文献
- 『日本歴史地名体系19 山梨県の地名』平凡社