国指定重要無形文化財・河内祭でも重要視される島
九龍島と鯛島は、古座川河口沖約1kmに浮かぶ無人島で、国道42号から見ることができます。
九龍島 黒々とした森の島
九龍島は亜熱帯性原生のタブノキの群落が見られる珍しい島です。島の頂上には九龍島神社があり、漁業の神として弁財天が祀られています。
『紀伊続風土記』の古座浦の条には九龍島は「黒島」と書かれ、以下のように記されています(てつの現代語訳)。
黒島
海口より未の方(※南西微南)の海の中11町にある。周囲6町余り。島に弁財天社がある。穴が2つある。あかり穴(長さ50間、高さ4~5間、干潮には人が往来する)、暗がり穴(長さおよそ40間、高さ1間ばかり)という。
寛政6年(1794年)成立の玉川玄龍著の地誌『熊野巡覧記』では次のように記されています(てつの現代語訳)。
黎島
古座浦の海中にある。南竜院殿が御巡国のときにこの島を九竜島とお呼びになった。上に弁財天の社がある。風景は蓬壺(※蓬莱山)に似ている。鼎のように三足の足があるという。
(玉川玄龍『熊野巡覧記』)
黎は黒。南竜院殿は徳川家康の10男で、紀州徳川家の祖、徳川頼信(1602〜1671)のこと。九龍島は徳川頼信がそう呼ぶまでは、その黒々とした森から黒島と呼ばれました。
蓬壺は蓬莱山のこと。蓬莱山の形が壼に似ているとされることからの異称。
仙人が住む蓬莱山に似ているという九龍島。その海面下には三本の足があると伝えられます。
島には「あかり穴」「暗がり穴」という二つの洞窟がありますが、海面下にも大きな洞窟があって三本足に見えるようになっているのかもしれません。昔、地震による大津波で海の水が引いた後、島が三本足で立っていたと伝えられます。
また熊野水軍の拠点であったとも伝えられます。
『紀伊続風土記』の古座浦の条には九龍島は「黒島」と書かれ、以下のように記されています(てつの現代語訳)。
黒島
海口より未の方(※南西微南)の海の中11町にある。周囲6町余り。島に弁財天社がある。穴が2つある。あかり穴(長さ50間、高さ4~5間、干潮には人が往来する)、暗がり穴(長さおよそ40間、高さ1間ばかり)という。
串本町古座にある古座神社の境内にも九龍島神社があり、九龍島を遥拝するような形で祠が置かれています。また古座神社自体の鳥居も九龍島の真向かいにあり、古座神社と九龍島は向き合うような形になっています。
古座神社の秋の例祭の本祭では、海上が穏やかなときには船で島に渡り、島にある九龍島神社に獅子舞の奉納が行なわれ、海上が荒れたときには古座神社の境内にある九龍島神社に獅子舞が奉納されます。
河内島と九龍島
古座川流域の5地区(古座・古田・高池・宇津木・月の瀬)で催される河内祭(こうちまつり)でも九龍島は重要な場所とされています。河内祭は古座川河口にある古座神社に祀られる河内神社の分霊を御舟に乗せて、元々の御神体である河内島まで里帰りさせるお祭りです。国の重要無形民俗文化財に指定されています。
『紀伊続風土記』の宇津木村の条には河内祭について以下のように記されています(てつの現代語訳)。
祭礼は毎年六月初丑日。氏子のことごとくが古田村の川原から拝む。祭式は前夜に古座川より鯨舟三艘に屋形を作り、装いに美を尽くして登り、舟歌を歌い、河内明神の島を廻り、夜明けて当日の昼頃に川を下るという。その他、種々の俳優などがある。遠近の諸客が集い来て、はなはだ賑やかである。日置浦から新宮までの間にこの祭りに次ぐ祭りはない。これを古座の河内祭という。
現在では河内祭は7月第4土曜日・日曜日(以前は7月24・25日)に斎行されます。1日目の宵宮では古座神社で「河内大明神」の神額に河内神社の分霊を移す遷座式が行われ、その後に分霊が宿る神額を御舟に乗せて古座川を遡って河内島に向かいます。その際に御舟は河内島に向かう前にいったん逆方向の九龍島に向けて進み、海上で清めのための海水を汲んでから河内島に向かいます。
また2日目の本祭では「ショウロウ」と呼ばれる神の「依りまし」役の三人の児童らを当舟に乗せて水上渡御が行われます。当舟が河内島対岸の川原に到着すると、ショウロウは川原に拵えられたショウロウ座と呼ばれる席に着座します。ショウロウ座は河内島ではなく九龍島に向けて据えられており、ショウロウは川原からは見えない4kmほど下流の九龍島に向かって座ります。
古座川流域の住民にとって九龍島は特別な島です。
国の名勝「南方曼陀羅の風景地 」
九龍島は国の名勝「南方曼陀羅の風景地」を構成する風景地のひとつです。「南方曼陀羅の風景地」は、南方熊楠が将来に残すべきだとした神社境内や景勝地のうちで条件の整った箇所を国の名勝として指定したものです。
御承知の古座浦の黒島も、この稲積と並んでタニワタリの名所なり。小生八年前行き、同島植物片っぱしから採りしに、そのころは一本もなく高芝、下里などいう村の旅宿などに栽えたるもの多少ありしのみ。去年、児玉親輔君行きしときは多少黒島にありしと聞く。しかし、とてもかく採集しきりにては、葉の長二尺にも及ぶ大なるものはなからんと存じ候。
(松村任三宛南方熊楠書簡、明治44年8月29日付『南方熊楠全集』7巻)
熊楠が九龍島を訪れた日がいつなのかはわかりませんでしたが、おそらくは明治35年(190212月に串本や古座を訪れているので、その間のことだと思われます。
九龍島は稲積島と並んでタニワタリの名所とされていました。タニワタリはオオタニワタリの別名。樹木や岩上に着生する大きな葉を持った本州には希なシダ植物で、熊野地方以南から台湾にかけて分布し、北限は三重県紀北町(旧北牟婁郡紀伊長島町)の無人島、大島。
オオタニワタリは観葉植物として人気があるため、熊楠の当時から乱獲があり、現在は絶滅が危惧されています。
熊楠が九龍島に訪れたときには一本も見つからず、近隣の村の宿に植えたものが少しあっただけだったとのことでした。その後、シダ植物の研究者である児玉親輔が訪れたときには多少あったということなので、自生株がわずかに残されていたのでしょう。
その後、九龍島のオオタニワタリは残念ながら絶滅してしまったようですが、近隣の人家の庭などに植えられて繁殖したものを島に植え直すということが行われました。
鯛島 鯛が岩になったとされる島
その名の通り鯛のような姿をしている鯛島。『紀伊国名所図会』には次のように記されてます(筆者による現代語訳)。
鯛島
九龍島に続いているところにある。
形態があたかも鯛が遊泳しているのに似ているのでこの名がある。(『紀伊国名所図会』)
河内島と鯛島
鯛島については次のような伝説があります。
昔々、古座川河口近くの海岸で、鯛の子と蛇の子が仲良く毎日遊びたわむれ、そして、いつしかお互いに恋心をいだくようになりました。
しかし、鯛の子と蛇の子の間の恋。それは実ることなく、鯛は沖へ、蛇は上流へと離れ離れになってしまいましたが、お互いに完全に忘れられず恋しさはつのるばかり。恋しさのあまり、とうとう蛇も鯛も岩になってしまいました。
人々は、鯛が岩になったものを鯛島、蛇が岩になったものを河内島(こうちじま。古座川河口から3kmさかのぼった川の中にある島)と呼ぶようになりました。
これを知った弁天さんと大黒さんは相談の末、鯛と蛇を逢わせてやるために漁師に舟を作らせ、一年に一度だけ、鯛を船に乗せて古座川を上らせ蛇に逢わせてやることになりました。
これが河内祭の起源だといわれます。
(てつ)
2007.4.2 UP
2021.4.24 更新
2024.4.14 更新
参考文献
- 熊野三山と熊野別当 - 鯛島と青暑島〔串本町・旧古座町の民話〕-
- TANUYO- 九龍島・鯛島 -
- 玉川玄龍『熊野巡覧記』
- 『紀伊続風土記 (第1-5輯)』臨川書店
- 『紀伊国名所図会』臨川書店
九龍島へ
アクセス: 古座港より船で5分 (渡し船は要予約)