熊野が持った水上兵力
山がちの地形で、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の所が多い熊野は、物資を陸上で運ぶのは不便であり、また豊富な船材と良港に恵まれた地域であったので海上交通が発達しました。
そのため水上兵力が大きな力をもつようになり、「熊野水軍」と呼ばれる人々が海上を舞台に活躍するようになりました(「熊野海賊」とも呼ばれました)。
熊野水軍は紀伊半島南部の各地の浦々を拠点として活動し、瀬戸内海の制海権を握りました。熊野水軍を統括したのは、熊野三山の実際上の統括者である熊野別当(くまのべっとう)です。
壇ノ浦の海戦で活躍
熊野水軍は平安時代末期の源平合戦で活躍したことで知られます。
源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当家(熊野別当は代々世襲制の役職でした)の湛増(たんぞう)は平氏に縁があったため平氏を見限ることができず、平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、田辺の新熊野神社(いまくまのじんじゃ:現 闘鶏神社)で占いをたて、神意を問いました。
その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというものでした。赤白の鶏を相対峙させてみると、白の鶏がすべて勝ちました。これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたといいます。
湛増は200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣。平氏を壇の浦に沈め、源氏を勝利に導きました。
義経の従者弁慶は湛増の子とされ、熊野には数カ所、田辺や鮒田など、弁慶が生まれたと伝わる場所があります。
最強を誇った熊野水軍は、鎌倉時代を通して盛んに海賊行為を繰り返し、鎌倉時代末期の延慶2年(1309年)には大規模な反幕府一斉蜂起を起こしました。その鎮圧のために15カ国の兵が動員されたといわれます。
熊野水軍の本拠地
熊野水軍の本拠地としては、紀伊半島西南部の日置川(ひきがわ)の安宅(あたぎ)氏、すさみの周参見(すさみ)氏、新宮に鵜殿(うどの)氏、尾鷲九鬼浦の九鬼(くき)氏、尾鷲浦の向井氏などがありました。
安宅氏は一族が淡路に渡り、戦国時代には三好氏の水軍として活躍。
1977年、瀬戸内海、小豆島(しょうどしま)の東沖合の水ノ子岩付近の海底から大量の備前焼と船底に敷き詰められていたバラストと思われる川原石が発見されましたが、その備前焼が14世紀中頃の製品であること、河原石が日置川(ひきがわ)の川原石である可能性が高いことが判明し、南北朝時代に安宅水軍の船が備前焼を輸送中に座礁・沈没したのであろうと推定されました。
九鬼氏は本拠地を志摩に移して、戦国時代には織田信長の水軍として活躍しました。九鬼氏は江戸時代にも大名として存続しました。
盗賊島として恐れられた紀伊半島
16世紀のヨーロッパで最も普及していたラザロ・ルイスの世界地図には、紀伊半島は「ドス・ラドルイス(盗賊島)」と書かれています。盗賊島、海賊の根拠地。
熊野は海賊の根拠地としてヨーロッパ人たちに怖れられ、結果としてヨーロッパ諸国の日本への侵略を阻んだのかもしれません。
熊野水軍関連の観光名所
熊野水軍関連の説話
(てつ)
2008.12.22 UP
2008.12.24 更新
2013.8.20 更新
参考文献
- 宮守友, 小山誉城編『奈良県・和歌山県の不思議事典』新人物往来社
- 山本殖生 監修『熊野―異界への旅』別冊太陽 平凡社