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滝尻磐座群(たきじりいわくらぐん)

和歌山県田辺市中辺路町栗栖川 芝村(栗栖川荘):紀伊続風土記(現代語訳)

滝尻王子上の善生土

滝尻磐座群

 滝尻王子の社殿横の山には磐座がいくつかあり、それらの磐座群が滝尻の上の山上を特別な場所としていたようです。

 鎌倉初期の成立と推定される、修験道の根本霊場である吉野・大峯・熊野などの縁起由緒を記した『諸山縁起』には「滝尻之上御前常行地、云善生土也、諸仏共此山住山人、不知歳久常麁乱神遊、余之恠不在、毎月一度之供返善生歟云」と記されています。

 滝尻の上は神仏が常に修行している地で、善生土といわれ、諸仏とともにこの山には修行者が住まう。悪さをする熊野の地主神・麁乱神も久しくこの山には現われず、その他のあやかしもいない。毎月一度供物を供えれば善生を得るという。

滝尻磐座群

滝尻磐座群

 滝尻王子は江戸時代には瀧尻五体王子社と呼ばれ、『紀伊続風土記』の芝村の項には以下のように記されています(私による現代語訳)。

○瀧尻五体王子社  境内山周百六十間
村より十二町栗栖川の東、滝尻にある。『御幸記』に見える。この地は流れの速い瀬で川の水が石に触れて激流する。当社はその側にある。よって滝尻という。社辺に宝篋印塔があって三、四百年前の物と見えるが、石が損じて銘は読みがたい。境内の山上を剣山という。半腹に岩穴がある。深さ三間、横二間ばかり。
伝えいうことに、古、奥州の秀衡が妻を携えて熊野に参詣した。その妻は臨月であった。この地に至って産気づいた。人家がないのでこの岩穴の内に入って三郎を産む。そのとき立願して安産を得た。よって七堂伽藍を造営して諸経並びに武具などをその堂中に納めたという。よってその堂を秀衡堂と号する。天正の兵乱で破壊し旧記も紛失して今は堂舎の跡はない。
岩穴の少し上に胎内くぐりという岩穴がある。深さ四間ほど。入り口は四尺ばかり、出口は三尺ばかりの穴である。毎年二月彼岸の中日には近隣より諸人が王子に詣でてこの穴を潜るという。神宝に小太刀(長さ九寸)矢根鈴の三品がある。秀衡の奉納した物という。三種とも古色がある(今、社司がいないので村の中の歓喜寺に納める)。熊野古道が廃してから当社は参詣の人も稀で大いに衰微した。

 この記事からも、滝尻において真に重要なのは社殿横の山上なのだということが伝わります。

滝尻磐座群

滝尻磐座群

滝尻磐座群

 現在、この岩屋が「胎内くぐり」と呼ばれます。

滝尻磐座群

 現在、この岩屋が「乳岩(ちちいわ)」と呼ばれます。

 これらの磐座群の中を熊野本宮へ向かう熊野古道が通っています。

 乳岩について『紀伊続風土記』には「この地に至って産気づいた。人家がないのでこの岩穴の内に入って三郎を産む。そのとき立願して安産を得た」とだけ書いてありますが、その続きの伝承があります。

 滝尻で出産したが、赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して秀衡夫妻は旅を続けた。子は山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた、というものです。

出産の不浄

 滝尻の上が特別な聖地であることを物語るエピソードですが、このエピソードには別の意味も込められています。

 それは、熊野が出産のケガレを意に介さないのだということ。

 『延喜式』という平安時代中期に編纂された法令集では、死と出産と血が不浄なものとして国家的に規定されて、出産も不浄なものとされましたが、熊野の神様は出産の不浄なんて気にしないからどうぞ来なさい、ということです。

 中央とは異なる価値観を熊野は有しているのだということを堂々と示しているのが、このエピソードです。

(てつ)

2014.6.6 UP
2019.9.16 更新
2019.9.19 更新

参考文献