み熊野ねっと 熊野の深みへ

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滝尻王子(たきじりおうじ)

和歌山県田辺市中辺路町栗栖川859 芝村(栗栖川荘):紀伊続風土記(現代語訳)

熊野の霊域の入口

滝尻王子跡

 滝尻王子は、熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高いとして崇敬されてきた「五体王子」のひとつで、熊野の霊域の入り口とされたとても重要な場所でした。
 富田川(とんだがわ)と石船川(いしぶりがわ)の合流点にあり、「滝尻」の名は、石船川の急流が富田川に注ぐ滝のような水音からきたといいます。

石田川、熊野詣の道中で最も神聖視された川

 富田川はかつて岩田川(いわたがわ)と呼ばれ、熊野詣の重要な垢離場(こりば)のひとつでした。
 岩田川は熊野古道「中辺路」を歩く道者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川であり、熊野詣の道中で最も神聖視された川であったのです。

 道者が初めて岩田川に出会う稲葉根(いなばね)王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は十何度と岩田川を徒渉しました。
 熊野から流れる清らかな川の流れを徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができると考えられたのです。

 滝尻王子に入る前にも川の流れに身を浄めなければなりませんが、ここでは岩田川(富田川)と石船川の二つの川が合流しています。仁和寺所蔵の熊野縁起には「滝尻で水浴する事は、右河は観音を念じて浴す、左河は薬師を念じて沐す」とあるそうで、右の川(岩田川)は観音菩薩の補陀落浄土から落ちてくる水であり、左の川(石船川)は薬師如来の浄瑠璃浄土から落ちてくる水であると念じて水浴せよ、と滝尻でとる垢離の心構えを記しています。

熊野懐紙

 岩田川と石船川の清らかな水に心身を清めた後に、道者は滝尻王子の社地に入りました。王子社では、奉幣や経供養、神楽の奉納などがを行われました。後鳥羽上皇の御幸の際には和歌の会も催されました。

 28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇は御幸の際に所々の王子で和歌の会を催しました。
 その歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
 現存する熊野懐紙は30数葉。そのうち11葉が、正治2年(1200)12月6日の滝尻王子での歌会のものだそうです。
 熊野懐紙は、当時の歌人には宝物と珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入源にもなったといわれています。

藤原秀衡と滝尻

 熊野本宮へ向かう熊野古道は社殿の横の剣山と呼ばれる裏山を登っていきます。滝尻の上の山中にはいくつかの磐座があり、そのうちのひとつは「胎内くぐり」と呼ばれ、また別のひとつは「乳岩(ちちいわ)」と呼ばれます。乳岩に関しては次のような話が伝わっています。

 奥州平泉の鎮守府将軍・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が、妻が身籠ったお礼に熊野参詣した。
 秀衡はその旅に妻を伴う。
 本宮に参る途中、滝尻で、妻はにわかに産気づき、出産。
 赤子を連れては熊野詣はできないと、その夜、夢枕に立った熊野権現のお告げにより、滝尻の裏山にある乳岩という岩屋に赤子を残して旅を続けた。
 子は、山の狼に守られ、岩から滴り落ちる乳を飲んで、両親が帰ってくるまで無事に育っていた。
 この子が後の泉三朗忠衡(いずみさぶろうただひら)である。

 この熊野権現の霊験に感動した秀衡は、滝尻の地に七堂伽藍を建立し、諸経や武具を堂中に納めたという。秀衡が建立した七堂伽藍は秀衡堂とも呼ばれ、秀衡はその伽藍の維持費にと黄金を壺に入れて近くに埋めたと伝えられますが、秀吉の紀州攻めで七堂伽藍は破壊され、現在は跡形もありません。
 藤原秀衡ゆかりの品としてはただ、秀衡奉納といわれる黒漆小太刀(一説には鳥羽上皇奉納。国重文)を神宝として伝えるのみです。

出産の不浄

 滝尻の上が特別な聖地であることを物語るエピソードですが、このエピソードには別の意味も込められています。

 それは、熊野が出産のケガレを意に介さないのだということ。

 『延喜式』という平安時代中期に編纂された法令集では、死と出産と血が不浄なものとして国家的に規定されて、出産も不浄なものとされましたが、熊野の神様は出産の不浄なんて気にしないからどうぞ来なさい、ということです。

 中央とは異なる価値観を熊野は有しているのだということを堂々と示しているのが、このエピソードです。

(てつ)

2003.1.23 UP
2013.12.2 更新
2014.6.5 更新
2019.9.15 更新

参考文献

滝尻王子へ

アクセス:JR紀伊田辺駅から龍神バス栗栖川・熊野本宮行きで40分、滝尻バス停下車
駐車場:熊野古道館の駐車場を利用(無料、80台)

熊野古道レポート
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