み熊野ねっと 熊野の深みへ

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観光カリスマ坂本勳先生との対談のために用意した原稿

「第1回 哲夫の部屋」のために用意した原稿

2013年11月1日(金)に道の駅 奥熊野古道ほんぐうにて開催したトークイベント「第1回 哲夫の部屋」のために準備した原稿の一部です。
坂本勲生先生との対談に備えて書きました。大ざっぱにだいたいこんな感じの流れということで。


こんばんは。ようこそ「哲夫の部屋」にお越しくださいました。
私がみ熊野ねっとのてつ、こと大竹哲夫です。よろしくお願いいたします。

「哲夫の部屋」というちょっとあれなタイトルですが、インターネット上での活動が主な私が、こういうリアルな場でも表に出ていきますよという気持ちの表れだと思っていただければ幸いです。私が考えたタイトルではないですけれど。

今回が第1回ということで、今後、第2回、第3回と2ヶ月に1回くらいのゆったりしたペースで続けていくつもりです。

記念すべき第1回のゲストは、ご存知、坂本勳生先生です。本日はよろしくお願いいたします。
ここにお集まりの方はだいたい皆さんご存知でご紹介するまでもないと思うのですけれども、今インターネットで生中継していまして、そちらで見ている方々の中にはご存知でない方もいらっしゃいますと思いますので、ちょっと紹介させていただきますと、こちら観光庁のHPです。坂本先生の紹介ページです。

「『熊野古道』の人気を支える語り部のカリスマ」
坂本勳生先生は、全国で100人ほどしかいない観光カリスマのおひとりです。
熊野古道の語り部の第一人者で、熊野本宮語り部の会の会長。

私の方の自己紹介もさせていただきますと、私は「み熊野ねっと」という熊野の魅力を発信しているHPを運営しております。インターネット上ではてつと名乗っています。
み熊野ねっとの他にも、南方熊楠のサイトとか『紀伊続風土記』という江戸時代の紀伊国についてのガイドブックのような本の現代語訳のサイトとか、熊野比丘尼のサイトとか、第21代熊野別当湛増のサイトとか、一遍上人のサイトとか、熊野関連サイトを複数運営しています。
熊野という所はとてもすごいところなので、そのすごさを伝えるということを主にインターネット上で行っています。

最近は人前で話すことも増えてきましたが、以前は全然表には出ていきませんでした。話を聞かせてくださいとかそういう依頼は以前からあったんですけれども、人前で話すということは大変なことなので断っていました。

最初に人前で熊野のことを話したのが、坂本先生が会長をされている熊野本宮語り部の会の研修会でした。藤原定家の後鳥羽院熊野御幸記というのを解説してくださいということで呼んでいただいて、語り部の方達の前でお話させていただいたのが最初です。

そのときけっこう楽しくて。人前で話すのも楽しいなということで、その後は依頼があれば人前で話す仕事も引き受けるようになりまして、テレビ出演も依頼があればさせていただくようになりました。テレビ出演はたまにしかないですけれど。
来月あたり、テレビ出演がありそうなんですけれども、公表できるようになったらツイッターやfacebookでお知らせいたしますので、ぜひ見ていただきたいなあと思います。

私が人前で話をするようになったきっかけが坂本先生だったということで、坂本先生には感謝しております。

私の熊野情報発進の元ネタ的な本のひとつがこちらの『本宮町史』です。この本宮町史の編さん室の室長をされたのが坂本先生で、坂本先生はまさに本宮町の生き字引です。すごい知識を持たれています。

『本宮町史』は4冊あって、「古代中世史料編・文化財編」「近世史料編」「近現代史料編」「通史編」。
素晴らしい本です。

私が活用するのは主に「古代中世史料編・文化財編」ですが、普通の人には「通史編」がいちばん読みやすいと思います。普通の今の日本語で書かれていますので。

「通史編」を読んでいてびっくりしたことがあって、戦後まもなく熊野川の河口からおよそ10kmの地点に巨大ダムを建設するという計画が立てられたということです。

どのようなダム計画だったのか?

当時としては世界最大級のダムで、高さ165m、ダム湖の面積は琵琶湖の4分の1。

本宮町で熊野川の最も上流にある土河屋の標高が107mなので、本宮町内の大部分が水没する、本宮大社でさえ水没する巨大ダムです。めちゃくちゃですよね?

どこが水没せずに残るのか? 川湯温泉は水没しますね? 湯の峰温泉は?

熊野の歴史、本宮の歴史を知っていたら、熊野や熊野本宮の価値を知っていたら、まったくあり得ないダム計画です。
後に世界遺産となる、世界の宝となる熊野本宮までも水没させるなんて。
なぜここまで熊野や熊野本宮が価値のないものとされたのでしょうか?

明治という時代が熊野の価値をことごとく否定した。

明治時代の初期に行われた神仏分離。
熊野という土地は神さまと仏さまを一体のものとして祭る神仏習合で盛り上がった聖地です。
それが神仏習合なんてダメということになった。神さまと仏さまを一体のものとして祭るというのは日本人のなかで自然発生的に生まれて来た信仰のあり方だと思うのですが、その神仏習合によって熊野は日本有数の聖地となったのに、それが否定されました。

なんのために神仏を分離させろということになったのでしょうか?

明治末期には神社合祀が行われました。
神社は1町村に1社だけにまとめなさいという神社合祀令という国の命令が出されて、残された1社以外はすべて潰すという、めちゃくちゃなことが明治末期に行われました。
熊野古道沿いに田辺から本宮までの間に二十数社の王子社があった。そのうちで合祀されずに残ったのは八上王子滝尻王子の2社だけ。その他の王子社はすべて潰されました。

明治時代というのはわずかに45年ですけれども、まず明治の初期に神仏分離があって、明治の末期には神社合祀あって、明治時代の45年で、熊野はぼろぼろになりました。

現在、最も神社の数が多い都道府県は新潟県で、4772社。二番目に多いのが兵庫県で、3863社。逆に、最も神社が少ない県は沖縄県で、13社。二番目に少ないのが和歌山県で、444社(平成二十二年の文化庁の宗教統計調査による)。
明治末期から大正にかけて行われた凄まじい神社合祀のために和歌山県は全国的にとても神社の少ない県となってしまいました。

神社合祀の実施は知事の裁量に任されたので、都道府県により合祀を激しく行った場所、あまり行わなかった場所がありました。
新潟県は神社合祀に消極的で、そのために現在、最も神社が多い県となっています。
それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県ではおよそ九割の神社が潰されるほどの激しい合祀が行われました。
神社合祀令が施行される前年の明治38年(1905年)、和歌山県には5836社の神社がありました。それが神社合祀令が施行されて7年後の大正2年(1913年)には442社に。
三重県では、明治38年に10413社あった神社が大正2年には1165社に。和歌山県では10分の1以下までに、三重県でも10分の1程度までに神社を減らされました。

この本宮町での神社合祀というのはどのようなものだったのでしょうか?

四村村 23社
三里村 14社
請川村 12社

この請川村が合祀許可がなされてからしばらく合祀を決行していないですね?
合祀許可というのは、形式的には氏子からの合祀申請というのがあって、それを県が許可するという形で行われたので「許可」ということになるのですが、実際は強制的な命令です。

外の村は許可されてから数ヶ月のうちに合祀決行しているのに、請川村は明治43年に合祀許可されて、合祀決行したのが大正3年、4年間も合祀を決行せずにいる。合祀しろと命令されて、4年もその命令を無視している。

熊野地方全域でめちゃくちゃな神社合祀が行われたなかで、合祀に抵抗し続けた地区があります。上富田町の岡という地区で、県から合祀許可された後も、岡の人達は合祀を行わなかった。合祀しろという命令を無視して、社殿をそのまま残し、森も伐らず、お祭りもやり続けました。
お上のいうことは絶対というような時代に、どうしてそのような抵抗ができたのかというと、それにはやはり南方熊楠の力が大きかったのだと思います。

南方熊楠は、今から100年ほど前に田辺に住んでいて、神社合祀反対運動を行った人物です。今から100年ほど前に熊楠はエコロジーという言葉を使って神社の森を守る自然保護運動を行った。新聞で神社合祀反対の意見を発表し、中央の有識者に手紙を出したり、政治家に働きかけたりして、神社合祀を食い止めようとした。

熊楠は世界的な学者で東洋学の権威としてに世界に認められていました。イギリスの学術雑誌ネイチャーに掲載された論文の数は50編で、世界最多。歴代最多です。田辺に住みながら英語で論文を書いて海外の学術雑誌に論文を発表していました。

熊楠はキノコの研究もしていて、熊楠のキノコ研究の協力者4人をキノコ四天王というのですが、その4人のうちの3人が上富田町岡の出身者でした。岡の人達と熊楠の間に交流があったということが大きかった。世界的な大学者である熊楠が神社合祀反対を唱えているというのは、岡の人達にとってとても心強いこと。岡の人達は自分たちの抵抗が間違っていないと信じることができた。熊楠の応援があったからこそ、岡の人達は神社合祀に抵抗できたのだと思います。

この請川村が神社合祀に抵抗しているのも、南方熊楠とのつながりがあったからかもしれません。

熊楠の友人に田辺で歯医者さんをしていた須川寛得という人がいて、その人が請川村出身なのです。その須川さんの関係で、請川村の人達と熊楠が交流があったのかも。
でないと、なかなかお上の命令に背くということはできなかったのではないか。

大逆事件で逮捕されて死刑になった成石平四郎とも交流がありました。
兄の勘三郎も逮捕されて、大逆事件で逮捕されたら死刑しかないのですが、特赦で無期懲役となって、十数年監獄のなかにいたのですが、請川の人達が勘三郎の仮出獄請願書を出して、仮出獄が許された。その請願のときに南方熊楠が尽力していて、勘三郎から熊楠へ感謝を伝える書簡が残されています。

請川村の人達が神社合祀に抵抗できたのは、熊楠の交流があって、熊楠から助言を受けることができていたからかなと推測します。請川の人と熊楠がやり取りした神社合祀に関する書簡が見つからないので、はっきりとはいえませんが。

請川村の須川氏について熊楠は文章を書いていまして、新宮藩主が来て宿泊する御殿があったとか、雨戸を朝から開け始めて、みな開き終わるや、直ちに閉めに掛からないと日が暮れてもみなまで閉まらなかったという大きな建物があったとか。須川氏の先祖は大和国の須川という所の城主の須川氏で、合戦に敗れて散り散りになり、紀州に逃れたのが熊野川町畝畑に住み、それが分かれて請川の須川氏に。

大和に残った者は柳生家に仕えることになり、江戸幕府将軍家(徳川秀忠、家光)剣術指南役であった柳生但馬守宗矩の、姉の娘の夫の須川長兵衛。須川長兵衛と請川の須川氏は同族らしい、ということが書かれています。

昭和、明治、江戸と時代をさかのぼって話をしてきましたが、江戸時代の史料で興味深いものがあったら、教えていただけますか?

山あらそい。

木の実。
佐藤春夫のひいおじいさんが幕末明治維新の直前に(1867年)作った歌で「木の国の熊野の人はかしこくてこのみこのみの山ずまい」というのがありますね。(長うた狂歌「木挽長歌」

その数十年前に、国学者であり紀州藩の藩士であった加納諸平(かのうもろひら。1806 ~1857)は、藩命を受け、『紀伊続風土記』編さんのために熊野を三度訪れていますが、その折に詠んだ歌に木の実のことを歌ったものがあります。

山かつがもちひにせんと木の実つきひたす小川を又やわたらむ

    木こりが餅にしようと木の実を浸している小川をまた渡るのだなあ。

大かたは秋とも知らぬ山かつが笥(け)に盛る飯は木の実なりけり

    木こりが弁当箱に盛っている飯は木の実であるのだなあ。

江戸時代までは山間部では木の実が主食。

主にどんな木の実が食べられたのですか?

イチイガシは生でも。

後略

(てつ)

2013.12.19 UP
2021.5.12 更新

参考文献