後深草院二条の熊野詣
『とはずがたり』は、後深草院(1243~1304。第89代天皇)の女房で愛人でもあった後深草院二条(中院大納言源雅忠の娘。1258~?)がその生涯を回想して綴った日記文学作品。
昭和十三年になってはじめてその存在が確認されたというとても珍しい古典作品ですが、中世の女流日記文学の代表作品として高い評価を得ています。
全五巻から成りますが、大きく前編三巻、後編二巻に大別できます。
前編三巻は、文永八年(1271)、二条が十四歳で後深草院の寵愛を得たことから始まります。
後深草院の寵愛を受けながらも、院の近臣の「雪の曙」(西園寺実兼)、院の護持僧の「有明の月」(仁和寺御室性助・法助の両説がある)らとも関係を結ぶ乱れた愛欲生活。後深草院の中宮であった東二条院(1232~1304)の嫉妬と憎悪。
東二条院の排斥にあって、弘安六年(1283)二十六歳の年、御所を退出。弘安八年(1285)二十八歳の年、北山准后(きたやまじゅこう。藤原貞子。太政大臣西園寺実氏室、二条の母方の祖父四条隆親の姉)九十歳の御賀に大宮院(後嵯峨中宮、後深草・亀山両天皇の母、東二条院の同母姉。1225~1292)の女房として出仕。
そこまでが前編の内容。『とはずがたり』に記述はありませんが、蒙古襲来(元寇)の時期と重なります(文永の役(1274)・弘安の役(1282))。
後編二巻では、前編から足掛け五年の空白を置いて、二条が出家を遂げてからのことが語られます。
正応二年(1289)三十二歳の年の東国鎌倉への旅や後深草院との再会。正安四年(1302)四十五歳の年の西国への旅。嘉元二年(1304)四十七歳の年の院の崩御、嘉元三年(1305)の那智参詣などが語られ、嘉元四年(1306)四十九歳の年の院の三回忌の記述でこの自伝的作品は終わります。
簡単に取り急ぎ内容をご紹介しましたが、後深草院二条の生涯はじつに凄まじいです。
二条は後深草院の皇子を生みますが、皇子は早世。「雪の曙」とあいだに女児を生み、「有明の月」とのあいだには男児を生む。後深草院は変態っぽいし。それから東二条院の嫉妬と憎悪。結局、後深草院には捨てられて、そして、出家。仏道修行に励む。
出家後の二条の仏道修行は並々ならぬもので、五部の大乗経を書写する宿願を立て、西行にならって修行の旅に出て、各地の寺社を詣で、縁起を聞いて結縁し、歌を詠み、写経しました。
一口に五部の大乗経といっても、『華厳経』六十巻、『大集経』五十巻、『大品般若経』三十巻、『法華経』十巻、『大般若涅槃経』四十巻、計百九十巻。この全てを書写するというのは、並々の決意ではできないことだと思います。
それでは、後深草院の一周忌の後に行われた那智参詣の場面を現代語訳をしてご紹介します。 後深草院二条、四十八歳。
『とはずがたり』現代語訳
このころからか、また法皇(※亀山院)が御病気ということがあった。そのようなことばかりがそうそうお続きになるはずでもない。法皇の御病気はいつものことなので、これを限りと思い申し上げることでもないのに、御回復の見込みがおありにならないということで、すでに嵯峨殿へ御幸したと耳に入る。去年、今年と続いたお悲しみはどうした御事なのかと、及ばぬ御事ながら、しみじみとあわれに思い申し上げる。
般若経の残り二十巻を、今年書き終えようという宿願を、数年このかた、熊野で果たしたいと思っておりましたので、ひどく水が凍らぬ前にと思い立って、長月(※陰暦九月)の十日頃に熊野へ立ちましたときにも、法皇のご病状はまだ同じご様子とお聞きするも、結局どういう給果をお聞き申しあげるだろうか、などとは思い申し上げたけれども、去年の後深草院の崩御の折のお悲しみほどにはお嘆き申しあげにならなかったのは、情けない愛別離苦(※愛する人と生別、死別しなければならない苦しみ)の思いであることよ。
例の宵・暁の垢離(※こり:冷水を浴びて、心身を清めることと)の水を前方便になずらえて、那智の御山にて、この経を書く。長月の二十日過ぎのことなので、峰の嵐もやや激しく、滝の音も涙の声と争ようで、悲しみを尽くした心地がするので、
物思ふ袖の涙をいくしほとせめてはよそに人の問へかし
(訳)悲しい物思いをして袖を幾度濡らしたことかと、せめて余所事のように誰か尋ねておくれ。
父母の形見の品の残りをことごとく売却して、写経をつぎつぎと営む心ざしを、熊野権現も納受されたのであろうか、写経の日数も残り少なくなって、御山を出る予定の日も近くなったので、お名残も惜しくて夜通し拝み申し上げなどして、ちょっとまどろんだ暁方の夢に、
故大納言(※亡父、源雅忠)のそばに私はいたが、故大納言は「後深草院のお出ましの途中」と告げる。
見申し上げると、鳥襷(※とりだすき:甘の御衣の浮き織物の文様。尾長鳥を唐花のまわりに配して輪違えとした模様)の模様を浮き織物に織った甘の御衣(※かんのおんぞ:上皇の平服として着用する直衣)を召して、右の方にちょっとお傾きになっている様子で、私は左のほうにある御簾(みす)から出て、院にお向い申し上げた。
院は証誠殿(※しょうじょうでん:ここでは本宮の主祭神を勧請した那智社の第二殿)の御社にお入りになって、御簾をすこしお上げになられて、微笑んで、じつに心地よさげなご様子である。
また、父大納言に「遊義門院(※ゆうぎもんいん:後深草院の娘(1270~1307)。この時点では存命中。母は東二条院)の御方もお出ましになったぞ」と告げられる。
見申しあげると、遊義門院は白いお袴(はかま)に御小袖(※こそで:袖口を狭くした肌着)ばかりを召して、西の御前(※にしのごぜん:那智社の主祭神を祀る第四殿)と申し上げる社の中に御簾、それも半分に上げて、白い衣を二つ、左右からお取り出しになって、「二人の親の形見を東西へとやった志は、気の毒に思う。取り合せて遣わすぞ」と仰せになるのを、私はたまわった。
それから私はもとの座に帰り、父大納言に向って、「善因善果で、天子の位に即いておいでになりながら、どのような御宿縁で御かたわでおいでになられるのですか」と申し上げる。
父は、「あの御かたわは、座っていらっしゃる下に御腫れ物がある。この腫れ物というのは、我々のような無智の衆生を大ぜい後ろにお従えになって、これをあわれみ育もうとお思いになられるためである。まったく御自身に御過ちはない」と言われる。
また後深草院を見申し上げると、なお同じ様子で心地よさげなお顔で「近くに参れ」とお思いになっている様子である。私は立って御殿の前にひざまずく。白い箸のように、元のほうは白々と削って末のほうには梛(※なぎ:熊野の神木)の葉が二枚ずつある枝を、院は二つとりそろえて下された。
と思って、ふと目が覚めると、如意輪堂(※今の那智山青岸渡寺)の懺法が始まるところである。
なにげなく側をさぐったところ、白い扇で檜の骨の(※檜扇のこと)が一本あった。夏などでもないのに、とても不思議で有難く思われて、手に取って道場に置く。
このことを語ると、那智の御山の御師(※おし:熊野に迎えた参詣者の祈祷や宿泊、山内の案内を行う僧)、備後(※今の広島県東部)の律師かくたうという者が、「扇は千手観音の御体というようである。必ずご利益があるだろう」と言う。
夢のなかの院の御面影も、覚めて後の袖に涙として残って、写経も終わりましたので、最後まで大切に残し持っていた御衣を、いつまで残し持っていられようと思い申し上げて、御布施に、泣く泣く取り出しました折に、
あまた年馴れし形見の小夜衣(さよごろも)けふを限りとみるぞ悲しき
(訳)長年、身につけて慣れ親しんできた形見の御衣を、今日を最後と思って見るのは悲しいことだ。
那智の御山にみな奉納して帰りましたときに、
夢さむる枕に残る有明に涙ともなふ滝の音かな
(訳)夢から覚めると、枕に有明の光が残り、涙を誘う滝の音が聞える。
かの夢の枕もとにあった扇を、今は院の御形見ともしようと自ら慰めて帰ってきましたが、はや亀山法皇が崩御されたことを承ったので、うち続かれた世のお悲しみも、有為無常の情けない習いとは申しながら、心につらく思われて、私だけが命尽きずにむなしく生きながらえ、この世を立ち去ることもないうちに、年も改まった。
二条の見た夢
これにて現代語訳終了。二条が那智に籠って見た夢について。
那智に籠って通夜した暁にまどろんで二条が見た夢には、亡父と、後深草院と後深草院の娘・遊義門院が登場しました。
後深草院は証誠殿に入り、地よさげな様子。証誠殿は阿弥陀如来の権現(垂迹神)が祀られる社殿であり、後深草院の極楽往生を願った二条の思いがそのような夢を見させたのでしょうか。
「右の方にちょっとお傾きになっている様子」の後深草院。『増鏡』には、後深草院は幼少時、腰が普通の状態でなく、きちんと立てなかったというような記述があります。
なぜ後深草院は御かたわであったのかを二条は思い、それは院が衆生をあわれみ育む存在である証であり、院は阿弥陀如来の化身であったのだと、そのような考えに至ったのでしょう。二条のなかで、後深草院は理想化され、阿弥陀如来と同一化します。
遊義門院は後深草院の忘れ形見。
西の御前に入る遊義門院。西の御前は千手観音の権現を祀る社。後深草院が阿弥陀如来なら、その娘の遊義門院は千手観音。
遊義門院の母親は、二条に嫉妬と憎悪の目を向けた後深草院中宮の東二条院。しかし、東二条院も後深草院崩御の年に後深草院に先立って亡くなっていましたし、尼となって気持ちの整理もついていたのか、そういった因縁も超えて、遊義門院は後深草院の娘ということで、二条のなかでは千手観音と同一化したのでしょうか。
二条が得た白い檜扇
扇は那智にとって重要なアイテムです。熊野那智大社の例大祭は神霊を扇神輿(おうぎみこし)に移して那智の滝前に運ぶ神事で、扇祭(おうぎまつり)または扇会式法会(おうぎえしきほうえ)といわれます。
この那智参詣の翌年、二条は石清水八幡宮で遊義門院の御幸に出会って、門院との面識を得、後深草院の三回忌の折には、那智で得た白い檜扇を門前に奉りました。
『とはずがたり』の記述はこの後深草院の三回忌で終わりますが、そのおよそ一年後、
遊義門院は三十八歳で死去してしまいました。
(てつ)
2005.9.10 UP
2020.2.18 更新
参考文献
- 新日本古典文学大系50『とはずがたり たまきはる』岩波書店
- 次田香澄『とはずがたり〈下〉全訳注』講談社学術文庫
- 新日本古典文学大系11『新古今和歌集』岩波書店