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平家物語3 成経・康頼・俊寛の配流

鬼界ケ島に配流された3人のうち2人が熊野信者

1 平清盛の熊野詣 2 藤原成親の配流 3 成経・康頼・俊寛の配流 4 平重盛の熊野詣
5 以仁王の挙兵 6 文覚上人の荒行 7 平清盛出生の秘密 8 平忠度の最期
9 平維盛の熊野詣 10 平維盛の入水 11 湛増、壇ノ浦へ 12 土佐房、斬られる
13 平六代の熊野詣 14 平忠房、斬られる

建春門院滋子の舞


 治承元年(1177年)、大納言藤原成親(なりちか。1138~79)を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは、形にならぬうちに平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ、処罰されます。いわゆる鹿の谷(ししのたに)事件です。

 西光法師は拷問の上、斬殺されました。その子らも殺されてしまいます。
 首謀者の藤原成親は、当然死罪になるべきところを成親の妹を妻にしている平重盛(清盛の嫡男)の必死の説得によって流罪となります。
 成親の嫡男・成経(なりつね)も捕えられ、やはり流罪に。
 成親は備前(岡山県)の児島に流され、成経は、平康頼(やすより)・俊寛僧都(しゅんかんそうず)の2人とともに、薩摩(鹿児島県)の南方海上にうかぶ鬼界ケ島(きかいがしま)に流罪になりました。

 南海の孤島、鬼界ケ島に流された成経、康頼、俊寛の3人。
 藤原成経(生年未詳~1202)は、陰謀の首謀者・成親の嫡男。この事件当時、右近衛少将&丹波守。清盛の弟の教盛(のりもり)の娘を妻にしているため、教盛に救われ、死罪を免れました。
 平康頼(生没年未詳)は、「今様狂い」の後白河上皇の今様(当時の流行歌)の弟子のひとり。『梁塵秘抄口伝集』にもその名が見られ、熊野御幸にも従っています。康頼の今様の実力については「美しい声で、細く清らかな上に、人前でもあがることなく、息が強い」などと後白河院も高く評価しています。父親の名は中原頼季といい、康頼がなぜ平氏を称したのかはわかっていません。
 俊寛僧都(1143~1179)は、法勝寺(ほっしょうじ)の執行(しゅぎょう)でした。法勝寺は京都市岡崎にあった白河院の勅願寺。執行は寺務を取り締まる上位の役僧。
 この3人のうちの成経・康頼の2人は熊野信者であり、鬼界ケ島でも熊野信心を続けました。その様子が、巻二の「康頼祝の事」「卒塔婆流しの事」に描かれています。

『平家物語』巻二「康頼祝の事」現代語訳

 さて、鬼界ケ島の流人どもは、露の命は草葉の末にかかって、惜しく思うということではないけれども、丹波の少将(成経)の舅・平宰相教盛の所領肥前国鹿瀬の庄(佐賀市嘉瀬町)より衣食を常に送られてきたので、それによって、俊寛も康頼もどうにか生きて過ごしていた。
 なかでも、康頼は流される途中、周防国室積(山口県光市)で出家していた。法名を性照と付けていた。出家はもとからの願いであったので、

   つひにかく背きはてける世の中をとく捨てざりしことぞくやしき
   (とうとうこのように出家してしまった。もっと早く出家しなかったことが悔やまれることだ)

 丹波の少将と康頼入道は、もとから熊野信心の人々でいらっしゃったので、「どうにかして、この島の内に熊野三所権現を勧請し奉って、都に帰れるように祈ろう」ということになったが、俊寛は、天性、信仰心のまったくない人であって、これを受け入れなかった。
 丹波の少将と康頼入道の二人は同じ心で、もしかしたら熊野に似ている所もあるだろうかと、島の内を尋ね回ると、あるいは美しい林のある堤があり、紅の錦の織物の装いのような草花の群落があり、あるいは雲間にそびえる神秘的な嶺もあり、緑の色合いもひとつではない。山の景色、樹の木立に至るまで他よりもなお勝れている。

 南を望むと、海は果てしなく広がり、雲や煙のような波が深く、北をかえりみると、高く険しい山岳から百尺(約30m)の瀧の水がみなぎり落ちている。瀧の音はことに凄まじく、松風の神さびた景色が飛瀧権現(那智の滝を神格化したもの。那智の地主神)のおはします那智の御山にいかにも似ていた。そこで、やがて、そこを那智の御山と名付けた。

 「この嶺は新宮、あれは本宮、ここはどこそこの王子、あの王子」など、王子王子の名を申して、康頼入道の先達で丹波の少将を引き連れつつ、毎日、熊野詣の真似事をしては帰洛のことを祈った。
 「南無権現金剛童子、願わくは憐れみをかけられ、我らをいま一度、故郷へ帰してくださいませ。そして妻子の姿を見させてくださいませ」と祈った。

 日数が経つと替えるべき浄衣もないので、麻の衣を身にまとい、沢辺の水で身を浄めては、熊野の岩田川の清き流れと思いをめぐらし、高い所に上っては、ここが発心門(ほっしんもん。熊野権現の総門)と思って観じた。

 康頼入道は参るたびごとに、熊野権現の御前で祝詞を奏上したが、御幣紙もないので、花を手折って捧げつつ、

 「これ、年のめぐりは治承元年丁酉(ひのととり)に当たる、十二ヶ月、三百五十数日ある中で吉日を選んで、口に出していうのもかたじけないことながら、日本第一霊験、熊野三所権現、飛瀧大サッタの教令(サッタは菩薩のこと。教令は忿怒の相のこと。飛瀧権現の本地は忿怒身の千手観音)、尊殿の御前で、信心の大施主の羽林(うりん:近衛将から納言に昇る武官の家柄の称)藤原成経ならびに沙弥性照(康頼)が一心清浄の誠を誓い、身体・言葉・精神の調和の志をぬきんでて、謹んで敬い申し上げます。

 そもそも證誠大菩薩(本宮。阿弥陀如来が本地)は、済度苦海の教主、法身、報身、応身の三身を一身に備えた仏様でいらっしゃいます。東方浄瑠璃浄土の医王の主(薬師如来。新宮の本地仏)は衆生の病を悉く取り除く如来でいらっしゃいます。南方補陀落浄土の能化の主(観世音菩薩。那智の本地仏)は重玄門の大士(菩薩)、若王子(にゃくおうじ)は娑婆世界の本主、施無畏者(観世音菩薩の異称)は、頂上の仏面を現じて、衆生の願いを聞いてくださっています。

 これによって、上は天皇から下は万民にいたるまで、ときには現世安穏のため、ときには後生善所(死後に極楽浄土に生まれること)のために、朝には浄水を掬って煩悩の垢をすすぎ、夕方には深山に向かって仏の名号を唱えるのに、感応が起こらぬことはありません。
 高く険しい嶺の高いのを神徳の高いのに喩え、険しい谷の深いのをの弘誓(ぐぜい。仏菩薩の広大な誓願)の深さになぞらえて、我らは雲をかき分けて登り、露を凌いで下っています。
 ここを利益の地と頼まなければ、どうしてわざわざ険難の道に歩みを運びましょうか。権現の徳を仰がなければ、どうしてこのような幽遠の地に参りましょうか。

 よって、證誠権現、飛瀧大サッタ(サッタは菩薩のこと)おのおの青蓮(しょうれん。仏の眼は青蓮に喩えられる)慈悲のまなじりを並べ、小鹿のように注意深い御耳を振り立てて、我らの真心を知見して、ひとつひとつの願いを納受したまえ。
 結ぶ速玉の両権現(結ぶ=那智、速玉=新宮)の、衆生の資質をお見極めになり、ときに有縁の衆生を導き、ときに無縁の郡類をもお救いになるために、七宝荘厳の住処(浄土)を捨てて、仏の八万四千の相好から放たれる智慧の光を和らげ、六道三有の塵の世界に来訪しなさっています。

 このようなゆえに、苦果を受けることに定まっている業因も、観音を信じれば転ずることができ、長寿を求める礼拝に訪れるものは袖を連ねて捧げものが欠ける暇がない。袈裟を重ね、花を仏に捧げて、神殿の床を動かし(真摯な祈りで神仏の感応を得ることのたとえ)、信心を水のように澄まして、利生の池を湛えています。神様が納受しなされば、どうして願いが成就しないことがありましょうか。
 仰ぎ願わくは十二所権現、おのおの利生の翼を並べ、遥か苦海の空を駆け、我らの配流の憂いを安んじ、すみやかに帰洛の願いを遂げさせたまえ。再拝」
 と、康頼は祝詞を申し上げた。

 (現代語訳終了)

『平家物語』巻二「卒塔婆流しの事」より一部現代語訳

 そういった次第で、二人の人々は、普段は熊野権現の御前に参り、通夜するときもあった。
 ある夜、二人は参って、夜もすがら今様を歌い、舞などを舞って、明け方、苦しさに康頼がちょっとまどろんだときの夢に、

 沖から白い帆をかけた小舟が一隻、汀に漕ぎ寄ってきて、舟の中から紅の袴を着た女房たち二十、三十人が渚に上がり、鼓を打ち、声を整えて、

   よろづの仏の願よりも 千手の誓ぞたのもしき
   枯れたる草木も忽ちに 花さき実なるとこそ聞け
    (万の仏の誓願よりも千手観音の誓願が頼もしい。枯れた草木もたちまちに花咲き、実がなると聞く)

 と、くり返しくり返し三度、歌い、歌い終えると、かき消すように失せてしまった。

 こういう夢を見た。康頼入道は夢から覚めて後、奇異の思いにとらわれながら、
 「おそらく、これは龍神の化現と思われます。熊野の三所権現の中で、西の御前(那智の神様)と申し奉る権現は本地は千手観音でいらっしゃる。龍神はとりもなおさず千手観音の二十八部衆のひとつでいらっしゃるので、それであるから、願いが御納受されたのです。頼もしいことです」

 またある夜、二人が参って通夜したときの夢に、

 沖から吹いてくる風が、木の葉を二つ、二人の袂に吹きかけてきた。なんとなく、これを取って見ると、御熊野のなぎの木の葉であった。その二つのなぎの葉に一首の歌が虫喰いの文字で書き付けてあった。

   ちはやぶる神に祈りの繁ければなどか都へ帰らざるべき
    (神への祈りが絶え間ないので、どうして都へ帰れないことがあるだろうか)

 康頼入道は、あまりの都恋しさに、せめてもの謀であろう、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字、年号、月日、仮名、実名、二首の歌を書きつけて、海に流すことを考えついた。

   薩摩がた沖の小島にわれありと親には告げよ八重の潮風
    (薩摩潟の沖の小島に私はまだ生きていると親には告げておくれ。八重の潮風よ)

   思ひやれしばしと思ふ旅だにもなほ古郷は恋しきものを
    (思い遣っておくれ。しばしと思う旅でさえ、やはり故郷は恋しいものなのに)

 この卒塔婆を浦に持って出て、
 「南無帰命頂礼、梵天帝釈、四大天王、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、殊に熊野権現、安芸の厳島の大明神、せめて一本なりとも都へ伝えてください」
 と祈って、沖の白波が寄せては返すたびごとに卒塔婆を海に浮かべた。
 卒塔婆は、造り出しては海に入れたので、日数が積もれば、卒塔婆の数も積もっていった。
 その物思う心が順風ともなったのであろうか、また、神明仏陀も送らせなさったのであろうか、千本の卒塔婆のなかで、一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ち上げられた。

 (現代語訳終了)

熊野を信仰した2人としなかった1人の明暗

 康頼の流した一本の卒塔婆は、康頼に縁のある僧に拾われ、康頼の老母・妻子のもとに届けられました。このことが後白河院の知るところとなり、重盛、清盛にも伝えられ、さすがの清盛も、哀れに感じ入ったそうです。

 そののち、高倉天皇の后になっていた清盛の次女・徳子(のちの建礼門院)が懐妊します。それを知った清盛は、高僧貴僧に命じて皇子の誕生を祈らせますが、産み月が近づくにつれ、徳子は体調を崩してしまいます。
 これを、保元の乱に敗れた者たち(祟徳院や左大臣藤原頼長)や鹿の谷事件で処罰された者たち(大納言藤原成親や西光法師、鬼界ケ島の流人たち)、平家に怨みをもつ者たちの死霊・生き霊の怨念によるものだと考えた清盛は、死霊をなだめ、生きている者に関しては罪を赦し、放免することにしました。

  恩赦が行われ、鬼界ケ島の流人、熊野権現に帰洛のことを祈り続けた成経と康頼の二人も赦免されます。しかし、熊野信者でなかった俊寛僧都だけは赦されませんでした。一人残されることとなった俊寛僧都は、嘆き悲しみ、半狂乱になります。二人が島を出ていき、一人取り残された俊寛は、やがて食を断ち、弥陀の名号を唱え、死んでいきました。
 慰霊や恩赦の効果があったのか、徳子は無事に皇子(言仁親王、のちの安徳天皇)を出産します。

 その後の藤原成経と平康頼について。
 成経は赦されて帰洛後、もとのように後白河院に召し抱えられ、1182年に従四位上、翌年、平家が都落してのち、右近衛少将に還任し、のち、参議右中将正三位まで昇りました。1202年、47歳で没。
 康頼は赦されて帰洛後、東山に庵を造って籠居。『宝物集(ほうぶつしゅう)』という仏教説話集を著しました。晩年、尾張野間の源義朝の墓を整備し、頼朝から阿波国麻殖の保司に任ぜられています。没年は未詳。

 

 

(てつ)

2015.8.26 更新
2019.9.4 更新
2022.2.4 更新

参考文献

熊野の梛(ナギ)の葉