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商人の巻物「秤の本地」、商人の起源

日本の商人の始祖は熊野権現の従者

 熊野信仰が盛んであった中世、商人の多くは行商人(商品を荷なって売り歩く商人)で、店鋪を構えて定住する商人はきわめて稀でした。中世においては商人といえば普通、行商人のことです。

 その中世の商人たちが子孫たちに語り伝えていた商業や商人の由来、歴史、伝説を書き記した巻物がおもに東国から発見されています。

 「商人の巻物」と総称されるそれらの商人の由緒書・由来書には、日本の商人の始祖は熊野権現の眷属(けんぞく:従者)の28人のうちの4人であると記されています。

 大量の商品に囲まれて生活している私達にとって、商品がある、商品を買うというのは当たり前のことで、そこに神仏の存在を感じることなどありません。

 商人・商業と熊野信仰にいかなる関係があったのでしょうか。

 「商人の巻物」でもっとも古い形を示すとされる國學院大学図書館所蔵の「秤の本地」。信濃国の北国街道の海野宿(うんのじゅく。長野県小県郡東部町海野)に住む長明殿(4人の商人の始祖のうちの1人が長明殿で、ここではその子孫)が語って文字化したものです。

 この「秤の本地」は3つの部分に分かれます。
 まずは商人にとって大事な商売道具である秤の由来、次にやはり大事な商売道具である連索(れんじゃく。荷ない縄。連雀、連尺、連釈とも書く)の由来、最後に商人の由来、商人熊野起源説話。

 熊野が関係するのは第3部の商人の由来の部分だけですが、せっかくですので、「秤の本地」全文を現代語訳します。定本は、久野俊彦「商人の巻物[秤の本地]」(日本古典偽書叢刊 第三巻『兵法秘術一巻書・ホキ内伝金烏玉兎集・職人由来書』現代思潮新社(ホキは本当は漢字))。多々不明な点がありますが、ご容赦ください。

1 秤の本地

 そもそも秤の本地(本体、前世、由来)を詳しく訪ね申し上げると、中天竺檀得山(たんどくせん。北インドにある山。シッダールタの修行の地)の麓にシビ大王(釈迦の前世)という慈悲第一の人がいた。それゆえ、普賢と八幡はその人の心を試すために鳩(鳩は八幡神の神使)と鷹に変じて、鳩はシビ大王のお膝の上にとまり、鷹は梁にとまってその鳩をしきりに求めた。

 けれども、シビ大王は鳩を出さずに自分の肉を切って差し出す。鷹は受け取って、鳩の重さほど取ろう、と肉を差し返して難題を言った。そのとき、筆を真ん中をひもで結んで、一方に鳩を懸け、一方に自分の肉を懸けて差し出す。そうした次第で、「六波羅密の行のうちで捨身の行ほど辛いことはない」と言って、一首、歌を詠まれた。

これやこの 肉(しし)ふの鷹に 身を請われ 鳩の重さに 懸くるぞ肉(しし)

 と詠まれたところ、鳩も鷹もかき消すように失せてしまった。その後、自分の体をご覧になると、自分の体に切った跡もない。シビ大王はいよいよ行を尊ばれた。

 その後、善導和尚(613~681。盛唐の僧で、中国浄土教の大成者)の御時代、秤ということを定められた。そうしたわけで、秤にはたくさんの表象がある。秤の中に須弥山(しゅみせん。仏教の宇宙観で世界の中心にあるとされる高山)が表わされているのである。

 わずかにウサギの毛先にたまった埃が集まって須弥山となるのである。そうして須弥山が出現したのである。それゆえ、「微塵積もって山となる」とはこのことを申すのだ。

 これについて秤の目(竿秤に刻んだ秤の目盛り)も、銖(しゅ。薬・香を秤で量る量目の単位)中一銖一両を積もるのである(?)。秤の目は三百六十目あり、それは1年の日数を表わす。
 そうであるので、須弥に第一あるについて、大唐の如月、秤の目は星の宮(星や星座)を表わすのである。

 須弥の四州(須弥山を囲む海の四方にある四つの島)は北にあるといって、秤の取っ手を一方の端には作るのである。そのため日の出る方を東と定める。秤の目には天の二十八宿(古代中国の星座。月の通り道である白道に沿って選ばれた28の星座)、地の三十六禽(十二支を細分化してできた36の精霊)が表わされるのである。

 そのため、
 迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処南北(修験道の呪文)
 これについて北と定めるのだ。あるいは南がこれについて夜昼の区別がある(?)。秤の長さは一尺二寸である。どのようにも正直に秤の目を大事に傾かぬように仕るのだ。

一、須弥山と申すのは、根が太く末が細くなり、高さ八万由旬(ゆじゅん。長さの単位。1由旬の長さについては諸説ある)である。これを秤に表わすのである。

一、商人は正直を基本とし、表には慈悲をもっぱらとするのである。そのため須弥山は東西南北どちらへも傾かない。だから、天竺では筆の中を結って秤にするのだ。

 その後、鷹秤(たかばかり。1尺の長さが、曲尺の1尺2寸3分にあたる尺度。竿秤の竿の長さが1尺2寸なので、それを鷹秤の1尺とした)が始まるのである。大唐では天秤という秤を始められる。これは薬を掛けるのに皿を使ってするのである。その後、高秤(たかばかり)が始まる。トクボウシというものもある。秤が我が国へ持ち込まれたのは、行基菩薩がしたことである。

 秤に金を押すことがないように。そのいわれは、善導和尚と申す仏のお姿が金色で腰から裾が光をお放ちになるので、秤に金を押すことがない。

 秤の折れたのを持たないように。そのいわれは、須弥山が折れたことがなく、継いだことがないからである。

一、商人に折れた秤を持たせてはならない。

一、商人は、貧乏なものであっても、秤を一竿持たなければできないのである。よくよくこのことを心得るべきである。


 以上が第1部、中世の商人たちが語り伝えてきた秤の由来です。
 秤それ自体は須弥山宇宙を表わすものであり、秤に刻まれた目盛りは、それを目星というように星や星座を表わしています。

 続いて第2部、連雀の由来です。連雀とは荷縄のことです。荷を背負うための縄です。中世の商人は商品を連雀で背負って売り歩きました。したがって行商人のことを連雀商人ともいいました。

2 連索の本地

   秘伝書

 そもそも連索の本地を詳しく尋ね申し上げると、天竺において阿修羅・迦楼羅(かるら)・緊那羅(きんなら)・摩喉羅迦(まごらか)が天へ災いをなすとき、およそ三千三天であるけれども、十天の分を表わしなさった。

 一、四王天(しわうてん) 一、とう利天(とうりてん。「とう」はりっしんべんに刀) 一、兜卒天(とそつてん) 一、夜摩天(やまてん)
 一、楽変化天(らくへんげてん) 一、他化自在天(たけじざいてん) 一、梵輔天(ぼんほてん)
 一、梵衆天(ぼんしゅてん) 一、大梵天(だいぼんてん) 一、福生天(ふくしょうてん)

 かの天への阿修羅が災いをなす時分に、帝釈の壇の上に一丈五尺(約4.5m)の蛇が2匹出てきた。まったく名を付けることができないでおりました。文殊・普賢菩薩がこれをお聞きになり、これをご所望してご覧になると、または両部(金剛界・胎蔵界の両界)の大日如来はことごとくを表わしているのでといって、そのとき、文殊は「汝はいかなる生き物か」とお尋ねなさる。

 その蛇は「帝釈の勤行の精力が集まって虫になったのである」と答え申し上げる。そのとき、その蛇の名を一匹はソシ(粗末な糸)、一匹はホッス(払子。鞭のようなもの)とお付けになって、文殊菩薩は、恒河河(ごうがかわ。ガンジス川)の上流で壇を築いて七日七夜、勤行をされるのを大日如来がご覧になると、その蛇はまた生を変えて一丈八尺(約5.4m)の縄になったのだ。

 そのとき、大日は「本索(ほんじゃく。本源の縄)」と名をお付けになる。そういう次第で、仏生国(釈迦が生まれた国)なので仏がもてあそびになったのである。

 その後、摩訶陀国(まかだこく:マガダ国、ガンジス川中流域にあった古代インドの王国)の大王が、この縄を仏にご所望しなさる。ご覧になると、かき消すように失せてしまった。また、この縄は文殊のお寺へ参ったのだ。

 その後、大唐の孔子(こうし。春秋時代の中国の思想家、儒教の創始者。紀元前551年~紀元前479年)の時代に、なとつ(未詳)と申す人、さいゐん(未詳)と申す人、その両人の方々を仏生国に遣わし文殊菩薩にご所望する。そこでお尋ねになられます。

 孔子はキラヒ山(未詳)でご覧になって越にお移しになられました。はじめ月と日をあらわし、両部の大日は、二十八宿、三十六禽、ことごとく人をうつし取り、かの縄を入れ物に入れ、番をしてお置きになりましたが、人も隠さないのに、その入れ物のふたが開き、仏生国へ帰りました。これについて大唐では「返索(へんじゃく:本源地へ返却された縄)」と名付けられました。

 その後、あの越に移したのをさいゐんなとつの両人が桑の木の甘皮でお織りになりました。織り始めを「けらくび」というのだ(織り始めは縄の先端が二股になっている。矢筈(やはず。矢を弓につがえるための凹状の窪み)に似ていることからケラ首といった)。その後、仏生国へ夫僧(?)をたて、この縄をご所望になると、葛籠(つづら)に入れて七ところ結いそろえて越されました。

 すぐさま孔子はふたを開けてご覧になると、三つくり縄のところを取り、桑の木の甘皮で織った縄と四筋の縄を手に持ってご覧になると、少しも違わない。孔子が手にお持ちになったところから、そのまま「手縄」と申すようになったのだ。

 かの縄は、我が姿をあらわされたといって仏生国へは帰らなかった。かの縄は大唐で七十五年の年月を送った。

 こうして後、燕唐の戦いが起きたので、呉の国より越の国へ乱れ入り、かの返雀となった縄四筋を張良(ちょうりょう:?~紀元前168。漢の三傑の一人)がお取りになって漢の高祖(前漢初代皇帝、劉邦。紀元前247~前195)にお目にかけられました。高祖はこの縄は長いといって切ってお捨てになりました。これを張良が取って見ると、自分の鷹秤で測ったところ二尺八寸であった。そのままそれを鞭に作った。

 その後、張良は、黄石公(こうせきこう:秦末の隠士。漢の張良に兵書を授けたという老人)に兵法の秘術を相伝されるとき、腰に差して参上した。そのとき、黄石公は、節間(ふしあい:縄が太く瘤になったところ)二尺八寸のうちに表わしたといって、すぐにこの鞭で天下を治めよといって、「東西南北四囲上下」という呪文を唱えて相伝を許された。この呪文を唱えて譲り渡すのである。

 そのとき、越国の王は会稽山(かいけいざん。浙江省紹興市の東南にある山)に閉じこもり、陶朱公(范蠡(はんれい)。越国の王勾践(こうせん)に仕えた名宰相。その後越を脱出して陶国で朱公と名乗り商売人として成功した)をただ一人引き連れて会稽山で三年の年月を送っていた。ただすごすごと年月をお送りしていましたが、陶朱公と張良が和談して勾践(こうせん:?~紀元前465)の本を討たさせ申し上げた。そのとき、陶朱公は鞭を請い申し上げました。一切れ縄を自分の鞭にいたし、天下を治めたので、「かへつる」と名付けた。

 また、一切れ縄を見ると、「かへつる」より五分短い。これをもって自分の葦毛の竜馬(りゅうめ:優れた馬)の尻を二つ打って、陶朱公に出された。

 その後、我が君に暇を請い、名遂げて退いた後、大唐のハグハイより西南方向、海の中に江南(こうなん。長江の南の地方)といった島がある。陶朱公はその島に新屋敷を建て、同じく市を立て、かの鞭をもって淵に生け簀を放し、この鞭をもって上をお振りになりますと、一寸の魚が一夜のうちに一尺になり、一尺の魚が五尺になり、これを売買し、その後、返索を孔子に請い申し上げると、なとつの織り申し上げた返索を出されました。

 これをもって陶朱公は商いを仕り、かの鞭をもって自由に思いのままに行い、かの返索を取って商いを仕り、三百六十六カ国欲しい物を買い取り、売りたい物を放し、自由に思いのままに仕るのだ。さて、鞭先(むちさき。行商人の活動の範囲)と申すことは、大唐に極まったのだ。

 さて、その後、大般若経が日本にお越しになるとき、十六善神が、三蔵菩薩(経蔵・律蔵論蔵に通じた高僧)・玄奘法師(盛唐の僧。602~664)両人を近づけ仰せになったことには、「仏生国より大唐に参上した本索を孔子に所望申し上げ、大般若の荷縄として日本へお越しになったのだ」。それをそのまま、日本の商人が継ぐのである。紀伊の大臣殿(未詳。熊野山伏か)が受け取られたのだ。


 以上が連索の本地。
 現在も「れんじゃく」と付く地名がありますが、それはその場所へ多くの連雀商人が訪れたことに由来するのでしょう。

 さて、第3部、いよいよ熊野が関係する商人の由来。

3 商人の本地

 そもそも、熊野の権現の本地を詳しく尋ね申し上げると、大唐契丹国(きったんこく:中国北辺を支配した遊牧民族キタイの国)の主としてお生まれになって、よい功徳をなされたことにより仏生国の四宝殿の金持ちにお生まれになって、戒行を極められたことにより摩訶陀国の大王に七度まで生まれ、七度めに日本にお渡りになったのである。

 二十八人の眷属たちを引率し、六尺の棒を八角に削り(行商人の杖または天秤棒。あちこちと小間物を売り歩く者を六尺といった。六尺棒は山伏の金剛杖を表象した)、すぐさまこれを杖と名付けた。黄金色の腹巻きを着、剣を三つ取り出し、縁ある所に落ち着けといって、これを虚空にお投げになると、案の定、紀の国牟婁の郡栗田口(くりだぐち)音無川(音無川は、ここでは熊野川の河口付近のことのようです)の上流、神蔵(かみのくら。神倉山)に落ち着いたのである。

 かの大王は日本へと馳せられ、熊野の神蔵へお着きになったのは、見飛(げんひ。大王が飛来したことによる偽年号)元年壬申(みずのえさる)閏(うるう)八月二十八日辛酉(かのととり)の日、寅の一点のときである。

 その後、剣をあちこちお尋ねになりましたけれども、まったく剣が見つからない。そんなところに、カラスが引き連れて剣のある所を教えたのである。ひとつの剣は新宮、ひとつの剣は那智、ひとつの剣は本宮、三つの剣を三ケ所に納め、熊野の三社権現と現わしたのだ。

 そのとき、山伏の姿で、頭巾(ときん)・九会曼陀羅の柿の篠懸(すずかけ)・胎蔵黒色(たいぞうこくしき)の脛巾(はばき)・八目の草鞋を履き、かの山を踏みいる。二十八人の従者は山伏となって、今に峰に入ること、熊野を「本山」と名付けた。

 一人の従者は伊勢へ落ち着く。また一人は伊賀へ落ち着く。また一人は津の国へ落ち着く。また一人は大和へ落ち着く。

 また一人は紀の国由良に留まり、あの返索を十六善神に請い受け取り、笈(山伏が峯入りの際に道具を入れて背負う箱)の荷縄として衆生済度のために、六度、日本各地をお巡りなさった。七度めに普陀落(ふだらく。南方にあるとされる観音の浄土。那智の海では補陀落渡海が行われました)へお渡りになるとき、浅間・長明・浦戸(ふつと)・布川(ぬのかわ)の四人がこの返索を請い取り、戻されました。仏法の縄であるのでといことで「蓮(はちす)の縄」と名付けられた。熊野権現の従者となり申した者であるので、浅間殿は伊勢の臣下におなりになりました。

 それから後、謀をもって、四人で相談なさり、市というものを立てたいといって、大和の国、三輪の里に宿を割り、あの蓮の縄を六尺の棒の末に掛け、四方へ向かってお振りになりますと、たくさん人がやって参りましたが、少しも出すべき商品がありませんでした。

 しかしながら、伊勢の国よりきつた殿が櫛というものを柘で挽き、同じくハンチヤクよりこさいと申す人が針を持ってきました。

 針を浦戸殿がお売りになりました。また櫛は浅間殿がお売りになりました。三輪の市を立てましたのが、見飛十二年二月九日癸酉(みずのととり)の未(ひつじ)のときである。

 新市を立て始めるとき、また売り始めた物、また買うこと、浅間殿は櫛を十銭に長明殿にお売りになり、長明殿は市に集まる人に二十疋(1疋=銭10文、江戸時代には1疋=銭25文)にお売りになりました。布川殿は針を十銭に浦戸殿にお売りになりました。浦戸殿は市人に二十疋にお売りになりました。
 これに因んで、新市を立てますとき、商人の親方(商人集団の頭。商人司)は櫛・針・秤を地頭(領主)へ持って参上するのである。また、地頭からは明神の御前に兜・太刀・刀を置かれるのである。

 また商人とその北の方(妻の敬称)のおのおの御格(商人や市場の掟、定め)をはじめ、そのうえ、相談に及び、白木の弓七丁、布十二反、代十貫、商人の子方(商人司の組下となっている商人)たちはこれをつないで、住吉明神の御前に置くのである。

 商人の親方は荒神の幣を一本切り、一文字反閇(へんぱい。足で地を踏み悪霊を退散させ、荒神を祀る地鎮の呪法)を散らし、反閇を何度も踏み、その後、太夫(神主)に祝詞を申し上げさせ、幕をうたせ、大般若を読ませ申し上げ、お布施を申し上げるのである。

 その後、商人の子方たちに、住吉の御前に置き、銭を十疋持って参った者には、十銭差しにつないでくくるのだ。これについて「差しの口(さしのくち)」というのである。

一、市が立ち上がって後、針を百本に二百本も馬二匹の鞍壷に置き、四方へ撒くのである。これを河原の者(死んだ牛馬の皮革加工・清掃・造園・雑芸能などに従事した者。不課税地の河原に住んだ。河原者は神仏の直属民であり、穢れを清める呪的能力を持つと考えられた)が拾って取るのである。その後、商品を容れる物がないといって、幕を倒して油単(ゆたん。荷物や箱などの上に掛けて雨よけにした油紙やその他の布の覆い)に縫い、四人で持ち申し上げになります。これについて油単を下に置くこともある。また、連雀を下に置くことはない。

一、由良にある興国寺を開山した無本覚心(法燈国師。宋から普化(ふけ)宗を伝えた。臨済宗法燈派の祖。1207~1298)が日本をお巡りなさるときに、越中の国の三橋(みつはし)殿の簾中(れんちゅう。公卿・大名の正妻の敬称)が瘧病を強くお患いになられたとき、瘧病の布施として宝物を進ぜられるときに、衆生済度のためなのでといってことごとくお返しし、その後、三橋殿の簾中は、体に触れた物なのでといって、髪もじ(かもじ。女性が髪を結うとき自毛で足りない部分を補う、添え髪)を壇の上に置かれました。これを笈の下段にお入れになり、また持っていってお返しになりました。これに因んで、商人の油単には、髪もじを入れるのである。

一、新市を立てますとき、大和の三輪の明神の庭の土を敷くのである。

 三輪明神(大神神社)の庭は市が初めて立った場所。その起源の市の土を敷いて祀ることにより、市の霊力を新たに立てた市に移しました。 

一、連索を切り離すとき、行基菩薩が日本ではこれをお折りになったのである。

一、連索には数多くの表象するものがあるので、店(市日に設けられた仮設の見世棚。常設の店舗ではない。中世の多くの商人は行商人であった)にいるとき下に置いてはならない。掛けて置くのである。置き所がないときは、袈裟掛けに肩に掛けておくのである。

一、商人宿(あきびとやど。連雀商人が集まる宿所)に着いたら、亭主になすべきことを怠ってはならない。

一、商人宿に着いたら、荷を下ろし置く。その上に連索を掛けておくべし。

一、人の荷物に手を付けてはならない。たとえ兄弟の荷だとしても。

一、しきたりに外れてはならない。

一、藍染め職人は三輪権現の鰐口を引き裂いて、両人に下されます。これにも怠ることがあってはならない(?)。

一、山伏と商人は二十八人の眷属の内であるので、これにも怠ることがあってはならない。

一、山伏は焙じ煎じた物を売ってはならない。海産物、なまものは常設の店舗で売るのである。

一、商人は肩衣(かたぎぬ)を着、袴を着るならば、足駄を履き、傘をさして、地頭の前に出ても見苦しくない。肩衣は篠懸、袴はくくり、同じく黒色の脛巾、足駄は八つ目の草鞋と心得よ。

(商人が身に付ける衣装を、山伏装束になぞらえています。商人は山伏の宗教観を担っていることにより諸国遍歴の自由を得ているのだということ)

一、店にいるときは、袴を離さず着ていよ。

一、自分が市庭の前面に店を出しているとき、よその商人が来て店がなければ、自分の店を立てておけ(?)。

一、商人は山伏に対して礼するとき、笠を脱ぎ、あふのけて左手に持ち、右の手を膝の上に置いて礼をする。同じく山伏も腰をかがめて礼をするのだ。

一、また山伏が疲れを乞いましたならば、商人は差しを置くのだ。

一、商人は新しい草鞋を離さず持っていよ。市を立てたとき、その草鞋を履き、市を通れ。

一、人が値を交渉した物を買ってはならない。

一、上り商人というのは、荷を担いだのをいうのである。

一、下り商人というのは、荷を売り払ったのをいうのである。

一、油単の中には千草万木の実と、また値をふったのも入れ、八千八品を入れるのだ。六尺の棒、馬の沓は油単の中に入れない。

一、浅間殿の油単は八十二の長さ九尺である。袋にして括(くく)るところは一尺二寸に五ところあけるのである(?)。

一、布川殿の油単は長さ八尺である。十の括るところは四ところ一尺あけるのである(?)。

一、長命殿の油単は長さ七尺の八のである。括るところは九寸にあけるのである(?)。

一、浦戸殿の油単は長さ六尺六の半にもするのだ。括るところは七寸に二ところあけるのである(?)。

(わからないですが、商人集団によって油単の括り方に違いがあることをいっています)

一、商人は日本で見上物(みあげもの。関所を通過するための贈与献納する贈り物)で通る関は四関あります。逢坂の関、念珠(ねず)関、冨樫関、清見が関。これが四関である。

一、浅間殿は、差しの口が数多ある。その内く根(うちくね。未詳)にも分けられた。

一、油単を仕立てるのは、二月九日である。

一、市を立てるとき、西宮(兵庫県西宮市の西宮戎神社)より、えびすの三郎殿(イザナギ・イザナミの第三子の蛭子神が西宮の浦に漂着して祀られたので、夷三郎という。市に勧請されて市神として祀られる)がいらっしゃって日本の物をお寄せになることで祝うのだ。

一、戎は十月二十日に生まれ、正月二十日島より我が国にお下りになるので、二十日二十日を喜ぶのだ。必ず商人は二十日のえびす講に参加しなければならない。

一、店にいて、人より早く油単を広げてはならない。

一、薬商人というのは、笈を掛けたのをいうのである。

一、山伏は市庭に店を置いてはならない。熊野権現は長座にござらぬものである。そのいわれは日月は地面に落ちない、三歳児のように覚悟仕ります。しかしながら、膝裏を付き、商品を手に持って立ち歩いて売ることをさせ申し上げるのだ。

一、商人の油単に入れない物、連索に掛けない物、海の産物・山菜、これはいちばん大事なことである。少しも伝えてはならない。

一、壷・藍・焙炉(ほいろ。火にかざして茶などを焙じる器具)の上に差し障りがないのは(?)、藍は売ってはならない。

一、鏡研ぎの板のこと。大唐に伯牙(はくが。春秋時代の楚の人)と申す琴の弾き手と、子期(しき。春秋時代の楚の人)と申す琴の聞き手がいた。その子期は、鏡を懐に入れて琴を聞いた。その後、子期は亡くなった。さてまた伯牙は琴の聞き手がいないといって、琴を割って火にくべた。そのとき、陶朱公は琴の破片を取り上げ、子期の鏡を琴の破片の上に置いたところ、曇った鏡がキラリと晴れた。その後、鏡研ぎの板はこれより始まったのだ。

一、藍染めの片板(布地に模様をつけるときに使う板)は、戸隠(長野県水内郡戸隠村の戸隠神社)の権現が天の岩戸の片扉をお開きになったとき、地覆の板が一枚離れたのをゼン王(未詳)が取り上げ、片板になさったのです。

   信州小県郡白鳥庄海野に住する長命殿が雑談した。


 以上で第3部の商人の由来及び「秤の本地」はお仕舞い。
 現代語訳はかなり怪しい箇所もあり、わからない箇所も多々あります。何かお気づきの点などございましたら、ご教示ください。

 さて、熊野権現と商人の関わり。
 熊野権現の眷属28人が日本に来て、山伏となり、そのうちの4人が商人の始祖となったと「秤の本地」では語られます。

商品について

 普通、人が人と物と物との交換を繰り返していくと、人と人の繋がりはより緊密なものになっていきます。人にとって物とは単なる物そのものではありません。物は持ち主と強い結びつきをもち、物には持ち主の人格の一部が付着しています。
 物を交換するということは、自分の人格の一部を相手に渡し、相手の人格の一部をもらうことになり、両者の間に強い絆を作ってしまいます。
 しかし、それでは商売になりません。

 付着した持ち主の人格を物から分離し、物を物そのものとして交換するために、人は市場をつくりました。
 市場は聖なる場所につくられました。聖なる場所。神仏が支配する空間。そういう空間に入った物は、もとの持ち主の人格との結びつきを断ち切って、神仏の所有物となると考えられました。

 市場に入ったら、物は神仏のものとなる。そうしてはじめて物は、もとの持ち主の人格との結びつきを解かれて物それ自体として交換できるようになるのです。
 いったんは神仏の所有物になることによってはじめて物は商品になれる。

 商業というのは、本来、神仏との関わりなしには成り立たない行為だったのです。

 油単について

 油単についてはこの「秤の本地」では詳しく記されていませんが、会津に伝来する「連釈之大事」では、「ゆたん」を「母袋」と書いて、「母の胎内にあるときの胞衣(えな)」を現わし、そのため、ゆたんの中に入れたものは無税であると主張しています。

 母親の胎内にあるとき、胎児は胞衣に包みこまれ、守られています。
 普通の人間は胞衣を脱ぎ捨て、この世に生まれてきます。

 しかし、時折、胞衣をかぶったまま子供が生まれてくることがあります。
 子供は「無」から「有」の世界に生まれでてくる。この「無」と「有」の境界膜として胞衣はイメージされました。
 神仏の世界と現実世界との境界膜としてイメージされた胞衣。

 したがって、胞衣である「ゆたん」に包まれた物は神仏の所有物であり、そこには世俗の権力が力を及ぼすことはできないと考えられたのでしょう。

 話は少し逸れますが、中世の武士が鎧に掛けた「ほろ」。「ほろ」は「母衣」と書き、やはり胞衣を表わしています。武士たちは胞衣である「ほろ」をかけることにより、神仏の所有物、神仏の直属民であることを表わして、戦場における神仏の加護を求めたのでしょう。

(てつ)

2005.3.14 UP

参考文献