平治物語 現代語訳3 信西出家の由来
1 信西打倒の議 2 悪源太義平の提案 3 信西出家の由来
4 信西が示した不思議 5 清盛、熊野権現に祈る 6 清盛、六波羅に着く
平治の乱を描いた軍記物語『平治物語』より熊野が関連する箇所をピックアップ。
「信西出家の由来 並びに南都落ちの事 付けたり最後の事」より
さて、かの信西入道と申す者は、藤原南家の出の博士で、長門守高階経俊(たかしな つねとし)の養子である。紀伝道(きでんどう:日本律令制の大学寮において、歴史・漢文学を教えた学科)を卒業せず、儒学をもって仕える役人にも入らず、先祖代々伝えてきた家柄ではないからということで弁官にもなれず、日向守通憲(みちのり)として何となく御前(鳥羽上皇の)にて召し使われていたが、出家の志を起こした。
それは、御前へ出仕しようとして鬢(びん:耳の上の髪)を撫でつけたところが、鬢水(びんみず:鬢のほつれを整え、つやを出すために櫛につける水)に映った顔の様子を見ると、喉笛1寸ばかりの所が剣の先にかかって命を落すというような顔の様子が写っていた。たいへん驚いたが、かねてからの祈願のために熊野へ参詣した。
熊野への道中、切目の王子の御前で人相見に行き会った。人相見は通憲の人相を見て、「あなたはあらゆることに通じた天才である。ただし喉笛1寸ばかりの所が剣の先にかかって露のごとく儚い命を草の上にさらすという相があるのは、なぜであろうか」と言う。
人相見の言うことは、未来のことはともかく、過去のことを一事も違わず当てたので、「通憲もそう思うぞ」と通憲は言って身の毛もよだった。
「さてそれをどうしたら逃れることができるだろうか」と言うと、「さあ、出家しても逃れられるだろうか。それも、70日を過ぎればどうであろうか」と人相見は言った。
熊野参詣から下向して御前(鳥羽上皇の)へ参り、「出家の志がありますが、日向入道と呼ばれるのは、あまりにも情けなく思われます。少納言の職をお許しいただけませんでしょうか」と申し上げたところ、
「少納言は一の人もなりなんどして(?)、容易に取り下せない官職である。どうであろうか」と仰せられたけれども、通憲はさまざまに申し上げたので、お許しをいただいて、すぐに出家した。
子息達もある者は中将や少将になり、また弁官になり、これは素晴らしいと見受けられたが、墨染めの袖に身をやつしても、今は儚い命さえ逃れがたい。昨日の楽しみ、今日の悲しみ。諸行無常がただ目の前に現われた。「吉凶はあさなえる縄のごとし(吉と凶は綯い合わせた縄のように互いに表裏となる)」という文句があるが、この言葉は真実のように見える。
高階通憲が出家して信西と名乗る、そのきっかけは熊野詣の道中にありました。
(てつ)
2012.4.21 UP
参考文献
- 日本古典文学体系31『保元物語 平治物語』岩波書店