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保元物語1 鳥羽院最後の熊野詣

鳥羽院が最後の熊野詣で受けた託宣

鳥羽上皇画像(安楽寿院所蔵)

 保元の乱を描いた軍記物語『保元物語』より熊野が関連する箇所をピックアップ。

『保元物語』上「法皇熊野御参詣 並びに御託宣の事」全文現代語訳

 同じ年(久寿二年1155年)の冬の頃に、法皇(鳥羽法皇が熊野へ参詣なさった。見物の貴賎が千里の浜まで続き、供奉の公卿殿上人は瑞垣のきわにひざまずく。

 本宮の證誠殿(しょうじょうでん:熊野本宮大社の主祭神を祭る社殿)の御前で御通夜して、現世と来世のことを御祈誓なされた。御前の川の波は嵐のようで、山を響かせる。

 更けゆくにつれて静まったので、御心を澄まして、来世現世のことをお考えになっていると、深夜になって人が鎮まって後に、證誠殿の御簾の裾より、左の御手と思われる美しげな御手を、繰り返し繰り返し何度も何度も差し出しされる。

法皇はこれを夢ともなく現ともなくご覧になって、人にはどうともおっしゃられず、熊野山内無双の、伊岡(これおか)の板(いた:いたは熊野の巫女のこと)と申す巫女をお呼びになって、「御不審のことがある。占い申せ」と仰せられたので、巫女は朝から権現を降ろし申し上げようとするが、正午過ぎまでお降りにならない。

 人々は心を鎮め、度々に参詣する輩にいたるまで目を澄ましておそばに仕えた。しばらくして後、権現がお降りになったと思われて、巫女が法皇に向かい奉って、左の手を捧げ、二、三度繰り返した。

 これが法皇が御夢想にご覧になられたものに少しも違わないので、真実の御託宣であることだとお思いになり、急ぎ御座ををすべり降りになられて、合掌して、「私は前世で十種の善行を修めてそのなごりにより天子の尊位を踏んだが、やはり三界につながれた凡夫である。神慮は計り難い。どうぞ御事情をお示しください」と申し上げあそばすと、巫女は世にも心細げな声で、

手にむすぶ水にやどれる月かげのあるかなきかの世にもすむかな

(訳)手に掬った水に映っている月の光はあるのかないのかわからないくらいはかないが、そのようにはかない世に住んでいることだ。
 もと歌は、紀貫之の「手に結ぶ水にやどれる月影のあるやなきかの世にこそありけり」(『拾遺和歌集』哀傷)

 この歌占を二、三度詠じて、涙をはらはらと落とし、「君がどうしておわかりになることができましょうか。来年の秋の頃に必ず崩御なさるでしょう。その後、世間は手の裏を返すがごとくになるでしょう」と御託宣があった。

 公卿殿上人はみな心が騒ぎ、色を失い、「どうにかして御寿命をお伸ばしすることはできないのでしょうか」と声声に申し上げられたので、法皇もお驚きあそばして、重ねてお申し上げあそばした。「和光同塵の方便は苦を除き楽を与えるためなので、大慈(一切衆生に楽を与えること)大悲(一切衆生の苦を除くこと)の神慮にも、どうして憐れみをお与えくださらないのでしょうか。その厄難をお救いになることがもっとも権現の本誓である。願わくはその方便をお示しくださいませ」と泣く泣くお申し上げあそばした。

 すると巫女はいよいよ涙を流して、「君は我が朝の主として四十余回の春秋をお治めになり、我はこの国の鎮守として一千余年の年月が経っている。利生方便の慈悲、憐れみを奉らないということはないけれども、定業決まっていることには神力に及ばない。まして守護の天童、満山の護法も力が及ばない。そもそも極楽浄土の地をこそ願いなさい。このような五濁爛漫の浮き世に、御心を御留めになられてはなりません。今はただ今生のことを御思いになることを捨てて、後生極楽往生するための御勤めをするべきです」と権現は託宣してお上がりになった。神は来年の秋の頃とお示しになったが、君はただ今にも死ぬとお思いになり、臣はまたすでにお別れ奉ったかのように悲しみ合った。

 行きの道中では供奉の人々があちらにこちらにお供をし、王子王子での馴子舞は世の常ならず、旅の御装いをつかさどり、勇み合って参られたが、それに引き換えて、御帰りの道中では人はみな涙を流し、袖を絞り、ただ亡くなった人を送るその儀式のようであった。

 熊野詣りの下向を、身分の高い人も低い人もみな喜びの道と申し上げるけれども、占い申し上げた巫女さえかえって不興にお思いになった。

 (現代語訳終了)

史実としては

 鳥羽院の最後の熊野御幸を『保元物語』の諸本は久寿二年(1155年)の冬のこととしますが、実際には仁平三年(1153年)春のことです。

 歴史的な事実の順序としては「鳥羽院最後の熊野御幸(1153年)→近衛帝崩御(1155年)→後白河帝即位→鳥羽院崩御(1156年)→保元の乱」ですが、『保元物語』の諸本では「近衛帝崩御→後白河帝即位→鳥羽院最後の熊野御幸→鳥羽院崩御→保元の乱」としています。このほうが物語のストーリー展開としてわかりやすいからでしょう。そのために鳥羽院最後の熊野御幸が実際とは違ったものとなっています。

 ただ1冊だけ伝わる『保元物語』鎌倉本では、年代順に書かれています。

 このようにして年月が経ったが、さる仁平三年の春二月には、法皇が現世と来世のことの御祈念のために熊野御参詣なされたと聞こえた。殊に御懇志の余り、本宮では金泥の一切経の供養、那智の御山では建立した御堂の供養を遂げられた。(中略)泣く泣く還御なさった。このようにしてその年は暮れた。中一年を経て久寿二年の春の頃より主上(近衛天皇)が御病気になられた。

 それから近衛帝崩御があり、後白河帝即位があり、

 このようにして今年は暮れた。次の年の四月改元があり、保元元年と申す。春の頃よりまた法皇(鳥羽法皇)が御病気と聞こえた。

 そして鳥羽院崩御、保元の乱。これが歴史的事実に基づいた流れです。

鳥羽院が本宮で受けた託宣

 また鳥羽院が本宮で受けた託宣は、白河院の熊野御幸の折の出来事を虚構化したものと思われます。
 藤原摂関家出身の僧・慈円の歴史書『愚管抄』巻第四には白河院のときに次のようなことがあったと書かれています。

 さて、白河院の御時、御熊野詣ということが始まって、度々お参りになられていたが、いずれのときにか、信を出して宝前にいらっしゃったときに、宝殿の御簾の下から美しい手が差し出しては引き、差し出しては引き、二、三度ほどくり返してから引き入ってしまった。

夢などにはこんなことはあるが、鮮やかに現実にこのようなことをご覧になってしまったのを不思議にお思いになって、巫女たちが多かったので、何となくものを問われたところ、いよいよますます現実ではないらしい。

巫女たちのなかにヨカノイタといって、熊野の巫女のなかでよく知られているものがいた。美作の国の者と申した。それが7歳でありましたが、はたと御神を憑かせなさった。世の末には手の平を返したことばかりあるであろうことを見申し上げたよと申し上げたが、このような不思議もご覧になってしまった君である。

 『保元物語』に話を戻すと、かくして熊野本宮での託宣の通りに「秋の頃」の7月2日(陰暦では7~9月が秋)に、ついに鳥羽上皇は54歳で崩御しました。そして、また、託宣通り、世の中は手の裏を返すようなことが次々に起こるのです。

(てつ)

2012.5.4 UP
2020.3.6 更新

参考文献