大峰奥駈修行
熊野から吉野まで連なる大峰山系。
大峰山系には熊野と吉野を結ぶ修験道の山駈けの道「大峰奥駈道(おおみねおくがけみち)」が走っています。
大峰山系は、役の行者が開いたとされる修験道の根本道場であり、大峰山系の南端である熊野は中世、修験道の一大中心地でした。
平安初期までは吉野の金峯山が修験者の修行の中心地でしたが、よりよき霊地を求めた修験者が大峰の山中に分け入り、南へと南へと進み、熊野への道が開かれたものと思われます。
温暖多雨で植生豊かな熊野の陰鬱な照葉樹林に修験者達たちはおそらく濃い霊気を感じたのでしょう。次第に修験者たちが熊野に集まるようになり、中世には熊野が修験道の一大中心地になりました。
大峰山系を縦走することを「大峰奥駈け」といいますが、奥駈け道の道中には「七十五靡(なびき)」といわれる75ケ所の行場が設けられています。その靡の一番が熊野本宮の証誠殿です。本宮が大峰奥駈けの出発点であり、熊野川を挟んで本宮の向いにある七越の峰の麓には山伏の宿坊が建ち並んでいたといわれます。
大峰奥駈けを行った修行僧の話が『大日本国法華経験記』に納められ(上 第十一)、『今昔物語集』にも採られています(巻第十三、第一「修行僧義睿、値大峰持経仙語」)。『今昔物語集』より全文現代語訳してご紹介します。
修行僧・義睿、大峰の持経仙に会うこと(現代語訳)
今は昔、仏道を修行する僧がいた。名を義睿(ぎえい:伝未詳)という。諸々の山を巡り海を渡って国々に行き、所々の霊験所に参って修行した。
ところが、熊野に参ってそこから大峰という山を通って金峰山に出ようとした山中で道に迷って方角を見失った。
ただ法螺を吹いてその音をもって道を尋ねたけれども、道は見つからなかった。山の頂きに登って四方を見ると、みな遥かに遥かな谷である。このようにして十余日、辛苦し、悩み乱れた。義睿は嘆き悲しみ、頼み奉る本尊に人里に出れるようにと祈請した。
そうこうしていううちに地が平らな林に至った。そのなかにひとつの僧坊があった。素晴らしい造りの建物である。破風・懸魚・格子・遣戸・蔀・簀・天井、みないい造りである。前の庭は広く白砂を蒔いている。家の前の庭木は木立の隙間なく、諸々の花が咲き、実がなって、限りなく霊妙である。
義睿はこれを見て喜んで近くに寄って見ると、僧坊の内に一人の僧がいた。年はわずかに二十歳ほどである。法華経を読誦している。その声は限りなく貴い。身に染みるようである。見ていると、一巻を読み終わって経机に置くと、その経が空に踊って、軸から表紙に至るまで巻き返してひもを結んでから、元のように机の上に落ち着いた。このように巻ごとに巻き返しつつ一部を読み終わった。
義睿がこれを見て奇異に貴く恐ろしく思っている間に、この聖人が立って、義睿を見つけて、奇異に思っている様子でたいそう驚いて言うには、
「この場所に古から今まで人が来たことはない。山深くて谷の鳥の声さえなお稀である。ましてや人が来たことはなかったが、どんな人がいらっしゃったのか」
義睿が答えて言うには、
「私は仏道を修行するためにこの山を通ろうとして、道に迷って来たのです」
聖人はこの事情を聞いて、義睿を僧坊の内に呼び入れた。
見ていると、端正な姿の童が微妙な食物を捧げて来て食べさせた。義睿はこれを食べて、何日もの間の餓えを完全にいやし、豊かな、満ち足りた心になった。
義睿は聖人に尋ねて言った。
「聖人はいつ頃からこの場所にお住まいになるのか。何によってこのように諸々のことを心に任せて(欠字)」
聖人が答えて言った。
「私はこの場所に住んですでに八十年余り。私はもと比叡山の僧である。東塔の三昧の座主(さんまいのざす:喜慶。第十七代天台座主)といった人の弟子である。その人は少々のことで私を勘当しなさったので、愚かな心で本山を去って、心に任せて流浪して、若く盛んであったときは在所を定めずに所々で修行をした。
年老いて後はこの山に留まって長いこと死ぬときを待っているのだ」
義睿はこれを聞いて、ますます「奇異だ」と思って、尋ねて言った。
「人は来ないとおっしゃるけれども、端正な童子が三人従っています。これは聖人の嘘です」
聖人が答えて言った。
「経に『天諸童子 以為給仕』(※法華経安楽行品第十四の偈。天界の童形の人たちが給仕をしてくれる)と説いてある。どうしてそれを怪しむのか」
義睿はまた言った。
「聖人は年老いたとおっしゃるけれども、姿を見れば若く盛んです。これはまた嘘なのではないですか」
聖人は答えて言った。
「経に『得聞是経 病即消滅 不老不死』(※法華経薬王菩薩本事品第二十三に見える句。法華経を聞くことを得た者はたちまちに病は完治し、不老不死となる)と説いてある。少しも嘘ではない」
その後、聖人は義睿にすみやかに帰るように勧める。
義睿は嘆いて言った。
「私は何日もの間、山に迷って方角を失い、心は弱り体は痩せ、歩いて行くことができません。ですので、聖人の威力に頼ってこの場所で付き従おうと思います」
聖人は言った。
「私はあなたを厭うのではない。この場所は人間の気分を離れて、多くの年を経ている。このゆえに、どうしてでも帰らなければならないと言うのだ。ただし、今夜、もし留まろうと思うならば、体を動かさず、声を出さず、静かに座していなさい」
義睿はその夜、留まって、聖人の言葉に従って、静かに隠れて座した。初夜(しょうや:夜の初めごろ。午後8時頃からの2時間)の頃に、にわかに微風が吹いて通常の気配ではなくなった。
義睿が隙間から見ると、様々な異形の形をした鬼神どもが来ていた。
ある者は馬の頭、ある者は牛の頭、ある者は鳥の頭、ある者は鹿の頭、このような多くの鬼神が出て来て、前の庭に構えた高い棚の上に、おのおのの香花を供え、菓子や飲み物や食べ物をみな捧げ置き、礼拝して掌を合わせ、身分の上の者から順序正しく座した。
このなかの第一の者が言った。
「今夜は怪しいな。いつもと違って人間の気配のある者がいる。誰か人が来ているぞ」
そう言うのを聞いて、義睿は心が迷って体が動いた。そうした間、聖人は義睿を救おうと願をおこして終夜、法華経を読誦した。夜明けになったので、聖人が回向(えこう:自他ともに浄土に往生することを祈ること)した後、この異類の輩はみな帰った。
その後、義睿はやおら出てきて、聖人に会って申し上げた。
「今夜の異類の輩はどこから来たのか」
聖人は答えて、「経に『若人在空閑 我遣天龍王 夜叉鬼神等 為作聴法衆』(※法華経法師品第十に見える偈。もしも人がいないならば、自分は天龍王や夜叉鬼神等をを遺して聴法の衆としよう)と説いてある」とだけ言った。
その後、義睿は「帰ろうと思う」と言うけれども、その行き方を知らない。聖人が教えて「すみやかに南に向かって行け」と言って、水瓶を取って簀子(すのこ)に置くと、水瓶は踊り下って少しずつ飛んで行く。
義睿はそれに従って行くと、二時ばかり歩いて山の頂きに至った。山の頂きに立って麓を見下ろすと、大きな里がある。
それから水瓶は虚空に飛んで見えなくなった。元の所に戻ったのだと思う。
義睿はとうとう里に出ることができた。涙を流して深山の持経の仙人の有り様を語った。これを聞いた人はみな、首を傾けて貴んだ。
真の心に至った法華経の持者はこのようである。そののち今に至るまで、その場所に至った人はいないと語り伝えるとか。
(現代語訳終了)
順峯、逆峯
もともと大峰奥駈けは熊野から吉野へと向かって駈けました。吉野から熊野へ駆けるやり方もありますが、それは「逆の峰入り(ぎゃくのみねいり)」「逆峯(ぎゃくぶ)」と呼ばれ、遅れて大峰に入った真言宗の醍醐寺三宝院系(当山派)の山伏が行いました。
熊野から吉野へ駆けるやり方は、「順の峰入り(じゅんのみねいり)」「順峯(じゅんぶ)」といい、もともと熊野を支配し、大峰奥駈けを先に始めていた天台宗の園城寺・聖護院系(本山派)の山伏が行っていました。
現在では「順峯・逆峯」という言い方とはまるで逆に、逆峯が一般的な大峰奥駈けのやり方になっていますが、それは江戸時代後期に紀州藩が神仏分離政策をとったことにより熊野三山が神道化し、熊野修験が衰退してしまったためです。熊野修験が衰退してからは天台・真言の両派とも大峰には吉野から入るのが一般的になってしまいました。
もうひとつ別の順峯を行った修行僧の話
『大日本国法華経験記』(下 第九十二)及び『今昔物語集』には、また別の順峯を行った修行僧の話が載せられています。『今昔物語集』(巻十三、第二十一「比叡山僧長円、誦法花施霊験語」)より順峯の場面のみをご紹介します(この説話の全文をお読みになりたい方はこちら)。
比叡の山の僧・長円、法華を誦して霊験を施すこと(一部現代語訳)
長円(ちょうえん:伝未詳)はまた、熊野から大峰に入って金峰山に出ようとして、深い山に迷い、前後もわからなくなった。けれども、心を尽くして法華経を読誦して、このことを起請すると、「一人の童子が来て『天諸童子 以為給仕』と告げて、道を教えてくれる」という夢を見て覚めた。そのため道がわかって金峰山に出た。
(てつ)
2005.7.13 UP
2020.9.6 更新
参考文献
- 日本古典文学大系『今昔物語集 三』岩波書店
- 佐藤謙三校注『今昔物語集 (本朝仏法部上巻)』角川ソフィア文庫