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餅つかぬ里

正月に餅をつかないしきたり

 和歌山県田辺市鮎川の小川(旧大塔村鮎川字小川)という地区では昔、正月には餅をつかないというしきたりがありました。

 そのいわれは後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう/もりながしんのう)に由来します。

 後醍醐天皇による倒幕計画が事前に鎌倉幕府に漏れ、幕府に追われることとなった大塔宮護良親王。大塔宮はわずかな家臣とともに山伏の熊野詣を装って、熊野に逃れてきました。

 大塔宮一行が小川の里にさしかかったとき、宮一行はあまりの空腹に里の者に食べ物を求めました。時はちょうど年末でに、どの家でも餅をついていましたが、里の者は宮さまだとは知らずに餅をあげませんでした。

 のちに里の者は、山伏一行が大塔宮護良親王の一行であったことを知り、餅を差しあげることができなかったことを悔やみ、非礼をお詫びするために以後、いっさい正月に餅をつかないことにしました。

 正月には雑煮の代わりに、「ぼうり(里芋の親芋)」を丸ごと皮をむかずに煮込んだ料理を食べてきたといわれます。

「太平記」現代語訳 大塔宮の熊野落ち

大塔宮護良親王没後600年、お詫びの餅を献上

 このしきたりは長く続きましたが、昭和10年(1935年)、京都の大覚寺で大塔宮護良親王の600年御遠忌法要が営まれた際に、小川地区の代表者が参列して、600個の餅を供え、昔の非礼をお詫びし、それからは正月の餅をつくようになりました。

餅つかぬ里

 県道219号沿いに立つ看板。当時の新聞記事を転載したもののようです。

大塔宮碑大塔宮

 その傍らに石碑が2つ。左上の画像の碑には「大塔宮御駐蹟」、右上の画像の碑には「敵に追われひそみし渓の紅葉さえ 愛でる間なけむ大塔の宮」と刻まれています。

 小川地区にはかつて劔神社(つるぎじんじゃ)という神社がありました。大塔宮が足利尊氏に幽閉された後、小川に身を隠した重臣の平賀三郎が大塔宮の劔を祀ったのだといいます。劔神社は、明治末期に鮎川字下平の住吉神社に合祀されました。

その他の餅をつかぬ里

 その他にも和歌山県内には那智勝浦町の二河、湯川、橋の川、色川、印南町の切目川上流域などで正月に餅をつかない風習がありました。

(てつ)

2010.5.21 UP
2019.12.26 更新
2020.6.10 更新

参考文献