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太平記 大塔宮熊野落ちの事 現代語訳1

大塔宮熊野落ちの事 現代語訳1

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『太平記』巻第五「大塔宮熊野落事」現代語訳1

 大塔二品親王(護良親王)は、笠置の城の安否をお聞きになるために、しばらく南都の般若寺に身を潜めていらっしゃいましたが、笠置の城がすでに落ちて、主上(後醍醐天皇)が囚われになったと聞いたので、虎の尾を踏む恐れが御身の上に迫って、天地は広いというが御身を隠すことができる所はない。

太陽や月は明るいが冥土の闇に迷っている心地がして、昼は野原の草に隠れて、叢の床に落ちるのを露と御涙が争い、夜は人里離れた村の辻にたたずみ、人をとがめる里の犬に御心を悩まされ、いずこでも御心が安らかになる所がないので、このような状態でもしばらくは御身を落ち着けられればとお思いになっているところに、一乗院に仕える侍者、按察法眼好専(あぜちのほうげんこうせん)が、どのようにして聞いたのであろうか、五百余騎を率いて未明に般若寺へ寄せてきた。

ちょうどそのとき宮に仕えている人が1人もいなかったので一防ぎ防いで落ちさせるようなこともできなかったうえ、隙間もなく兵がすでに寺内に打ち入っていたので、紛れて御出になる方法もない。ならばよし自害しようとお思いになって、すでにもろ肌脱ぎになられていたが、事が叶わない期に臨んで、腹を切るのことは最も容易いことである。

もしものこともあろうかと隠れてみようと思い返されて、仏殿の方を御覧になると、人が読みかけて置いてある大般若の唐櫃が3つある。2つの櫃は蓋は開いていないが、1つの櫃は御経を半分以上取り出して蓋をしていなかった。この蓋を開けている櫃の中へ、御身を縮めてお臥しになって、その上に御経を引っかぶって、身を隠す呪文を御心の中に唱えていらっしゃった。もし捜し出されたならば、すぐに突き立てようとお思になって氷のような刀を抜いて、御腹に差し当て、兵が「ここにいるぞ」と言う一言をお待ちになる御心の中は推量できないほどであろう。

やがて兵が仏殿に乱入し、仏壇の下・天井の上まで残る所なく捜したが、あまりに見つからないので、「このような物こそ怪しい。あの大般若の櫃を開けて見よ」と言って、蓋をしている櫃2つを開けて、御経を取り出し、底を裏返して見たけれどもいらっしゃらない。蓋を開けている櫃は見るまでもないと言って、兵はみな寺中を出ていった。

宮は不思議にも御命をお続かせになり、夢で道を行く心地で、なお櫃の中にいらっしゃたが、もし兵はまた立ち帰り、くわしく捜すこともあるだろうかとお思いになって、急いで前に兵が捜し見た櫃に、入れ替わっていらっしゃった。案の定、兵どもがまた仏殿に立ち帰り、「前に蓋の開いてあるのを見なかったのが気がかりだ」と言って、御経をみな放り出して見たが、からからと笑い出して、「大般若の櫃の中をよくよく捜したが、大塔宮はいらっしゃらず、大唐の玄弉三蔵がいらっしゃったぞ」と戯れたので、兵はみな一同で笑って門外へ出ていった。これはひとえに摩利支天の冥応、または十六善神の擁護に依る命である。と、信心を肝に銘じて感涙し、御袖を湿した。

 このような状態では南都辺の御隠家はしばらくの間も身を潜めることが難しいので、すぐに般若寺を御出になって、熊野の方へお落ちになることとなった。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺相摸(こでらのさがみ)・岡本三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎、以上の9人である。

宮を始め御供の者までもみな柿の衣( かきのころも:山伏の衣装)に笈を掛け、頭巾を深くかぶり、その中に年長の者を先達に仕立てて、田舎山伏が熊野参詣をする体に見せた。この君は元より皇居の内で成長なさって、立派な車の外にお出にならないことなので、御歩行の長途はきっとご無理であろうと、御伴の人々はかねてから心苦しく思っていたが、案に相違して、いつお習いになったのか、粗末な皮製の足袋・脚巾・草鞋をお召しになって、少しもくたびれた御様子もなく、社々の奉弊、宿々のお勤めを怠りにならないので、路次に行き会う仏道修行者も、修行を積んだ先達も見とがめることもなかった。

由良湊を見渡すと、沖を漕ぐ舟が梶を失くし、浦の浜木綿のように幾重にも、しらぬ浪路に鳴く千鳥、紀伊の路の遠い山果てしなく、藤代の松に掛かっている磯の波、和歌・吹上を遠くに見て、月の光に輝いている玉津島、光も今は昔ほどでなく、そうでなくても長い渚と曲がりくねった浦の旅の路に心を砕くものであるのに、雨に濡れている人里離れた村の樹や夕を送る遠い寺の鐘に哀れを催しているうちに、切目の王子にお着きになる。

その夜は叢祠の露に御袖を片袖を敷いて、夜通しお祈り申し上げなさった。
「南無帰命頂礼三所権現(熊野三所権現、熊野牟須美大神・速玉之男神・家津美御子大神)・満山護法・十万の眷属・八万の金剛童子。垂迹和光の月が明るく娑婆の世の闇を照らして、逆臣はたちまちに亡びて、朝廷が再び輝けるようになさってください。両所権現は伊弉諾・伊弉冉の応作であると伝え承ります。我が君(後醍醐天皇)はその苗裔であるが、天皇の威光はたちまちに起こった逆賊のために隠されて、世は暗闇です。痛ましいことではありませんか。神仏の御照覧が今はないかのようです。神が神であるならば、なぜ天皇が天皇でいられないのですか」と、五体を地に投げて一心に真心をもってお祈り申し上げなさった。丹誠無二のお勤めが神仏に通じて、神慮も暗に計られた。

終夜の礼拝に御窮屈だったので、御肘を曲げて枕としてしばらくまどろんでご覧になった御夢に、鬟を結った童子が1人来て、
「熊野三山の間はいまだなお人の心は不和で大義は成り難い。これより十津川の方へお渡りなさいまして時が至るのをお待ちください。両所権現(熊野牟須美大神・速玉之男神)より案内者に付けられて来たので御道を指南仕りましょう」と申し上げると、御覧になられた御夢はすぐに覚めた。

これは熊野権現のお告げであると頼もしくお思いになったので、未明にお悦びの奉弊を捧げ、すぐに十津川を尋ねてお分け入りになった。その道程の30余里の間にはまったく人里もなかったので、あるとき高峯の雲に枕を傾けて苔の筵に袖を敷き、あるときは岩に漏れる水に渇きを忍んで、朽ちている橋に肝を消す。

山路は本より雨がないのに、山の湿気が常に衣を湿す。見上げれば万仞の青壁。刀に削り、見下ろせば千丈の碧潭藍に染まっている。数日の間このような険難な道をを行かれたので、御身もくたびれ果てて流れる汗は水のよう。御足は欠損じて草鞋はみな血に染まっている。御伴の人々もみなその身は鉄石ではないので、みな飢え疲れて歩みもはかどらなかったけれども、御腰を推し、御手を引いて、路の程13日で十津川へお着きになった。

 

 

 「大塔宮熊野落事」はまだ続きますが、今回はここまで。

(てつ)

2012.8.3 UP
2019.12.26 更新

参考文献