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小栗判官 現代語訳6 餓鬼阿弥

小栗判官6 餓鬼阿弥

 1 深泥ケ池の大蛇 2 照手姫 3 人喰い馬 4 小栗の最期
 5 水の女 6 餓鬼阿弥 7 小栗復活


 照手の姫の御物語はさておき申して、ことに哀れをとどめたのは、冥土黄泉にいらっしゃいます小栗十一人の殿原たちであって、諸事の哀れをとどめた。
 閻魔大王はご覧になって、
 「さてこそ申さぬか。悪人が参ったわ。あの小栗と申するは、娑婆にあったそのときは、善と申せば遠くなり、悪と申せば近くなる、大悪人の者であるので、あれを悪修羅道へ堕とそう。十人の殿原たちは御主にかかわって非法の死のことであるので、殿原たちは今一度、娑婆へ戻してとらそう」
 との仰せである。

 十人の殿原たちは承って、閻魔大王へ、
「のういかに、大王様。われら十人の者どもが娑婆へ戻っても、本望を遂げるのは難しいこと。あの御主の小栗殿を一人、お戻しになってくださるものならば、われらの本望まで必ずお遂げになることでしょう。われら十人の者どもは、浄土へならば浄土へ、悪修羅道へならば修羅道へ、咎に任せて、遣ってくだされ。大王様」
 と申すのである。

 大王はこれをお聞きになって、「さても汝らは主に功ある輩よ。それならば、後世の模範に、十一人ながら戻してとらせよう」と思われて、視る目とうせんを御前にお呼びになって、「日本に体があるか、見てまいれ」との仰せである。
 承りましたと、八葉の峯に上がり、にんは杖という杖で虚空をはったと打てば、日本は一目で見える。

 閻魔大王の御前に参って、
 「のういかに、大王様。十人の殿原たちは御主にかかわって非法の死のことであるので、これを火葬に仕り、体がございません。小栗一人は名大将のことであるので、体を土葬に仕り、体がございます。大王様」
 と申すのである。

 大王はこれをお聞きになって、
 「さても後世の模範に十一人ながら戻してとらせようと思うけれども、体がなければ仕方がない。が、どうして十人の殿原たちを悪修羅道へ堕とそうか。われらの脇立ちにしよう」
 と、五体ずつ、両脇に十王(冥土の十王)、十体と、お祭りになって、今でも、末世の衆生をお守りになっていらっしゃいます。

 そうであるならば、小栗一人を戻せと、閻魔大王様の自筆の御判をお据えになる。
 「この者を藤沢(神奈川県藤沢市)の御上人のめいたうひじりの一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れになってくださるものならば、浄土より薬の湯を差し上げよう」
 と、大王様の自筆の御判をお据えになる。
 にんは杖という杖で虚空をはったと打てば、ああ、ありがたや、築いて三年になる小栗の塚が四方へ割れのき、卒塔婆は前へかっぱと転び、群らがったカラスが笑った。

 藤沢の御上人は南の方にいらっしゃるが、上野が原に無縁の者があるのだろうか、トビやカラスが笑っていると、立ち寄ってご覧になると、ああ、いたわしや、小栗殿は髪はぼうぼうで、足手は糸より細く、腹はただ鞠を括ったようなもの、あちらこちらを這い回る。両の手を押し上げて、ものを書く真似をしていた。かさにかよと(不詳)書かれたのは、六根かたわ、などと読むべきか。さてはかつての小栗である。
 このことを横山一門に知らせては一大事とお思いになり、おさえて、髪を剃り、形が餓鬼に似ているぞといって、餓鬼阿弥とお名付けになる。

 上人が、胸札をご覧になると、閻魔大王様の自筆の御判が据えられなさっている。
 「この者を藤沢の御上人のめいたうひじりの一の御弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れになってくだされや。熊野本宮湯の峯にお入れになってくださるものならば、浄土より薬の湯を差し上げよう」
 と、閻魔大王様の自筆の御判が据えられなさっている。

 ああ、ありがたいことだと、御上人も胸札に書き添えなさった。
 「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」と書き添えをなされ、土車(土を乗せて運ぶ木製の台車)を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、女綱男綱を打ってつけ、御上人も車の手縄にすがりつき、えいさらえいと、お引きになる。
 上野が原を引き出す。相模のあぜ道を引く折は、横山家中の殿原は敵小栗とわからずに、照手のために引こうといって、因果の車にすがりつき、五町(一町は約109m)だけは引かれた。

 末をいずくと問うたところ、九日峠(不詳)はこれかとよ。坂はないけれど、酒匂(さかわ。神奈川県小田原市酒匂)の宿よ。おいその森(おそらく大磯の森。神奈川県中郡大磯町)を、えいさらえいと、引き過ぎて、早くも小田原に入ったところ、狭い小路に、けはの橋(不詳)、湯本の地蔵(神奈川県足柄下郡箱根町湯本堂ノ前の地蔵堂)と、伏し拝み、足柄、箱根はこれかとよ。

 山中(静岡県三島市内)三里、四つの辻(不詳)、伊豆の三島や浦島や三枚橋(静岡県沼津市三枚橋)を、えいさらえいと、引き渡し、流れもやらぬ浮島が原、小鳥さえずる吉原の富士の裾野をまっすぐ上り、早くも富士川で、垢離(こり。冷水を浴びて、身と心を清めること)を取り、大宮浅間、富士浅間(静岡県富士市の浅間神社。富士浅間宮、大宮浅間社などといわれた)、心静かに伏し拝み、ものをも言わぬ餓鬼阿弥に、「さらば、さらば」と暇乞い、御上人は藤沢に向けて下られた。

 檀那がついて、引くほどに、吹上六本松(静岡県庵原郡蒲原町内)はこれとかよ。清見が関(静岡県清水市清見寺の海岸)に上がっては、南をはるかに望むと、三保の松原、田子の入海、袖師が浦(しでしがうら。清水市興津から江尻までの海岸)の一つ松、あれも名所か、おもしろい。噂に聞いた清見寺、江尻の細道、引き過ぎて、駿河の府内(静岡市)に入ったので、昔はないが今浅間、君の御出でに、みようがなや(?)。

 蹴り上げて通る鞠子の宿(静岡市丸子)。雉がほろろを撃つのやの宇津の谷峠を引き過ぎて、岡部のあぜ道をまっすぐ上り、松に絡まる藤枝(静岡県藤枝市内)の四方に海はないけれども、島田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、七瀬、流れて、八瀬落ちて、夜の間に変わる大井川。

 鐘を麓に菊川(静岡県榛原郡金谷町菊川)の月さしのぼる小夜の中山、日坂峠(静岡県掛川市日阪)を引き過ぎて、雨が降り流したので、路の状態は悪い。車に情けを、掛川の、今日は掛けずの掛川を、えいさらえいと、引き過ぎて、袋井(静岡県袋井市袋井)のあぜ道を引き過ぎて、花は、見付の郷(静岡県磐田市見付)に着く。あの餓鬼阿弥が明日の命は知らねども、今日は池田の宿(静岡県磐田郡豊田村池田)に着く。

 昔はないが、今切の両浦を眺める潮見坂、吉田(愛知県豊橋市)の今橋、引き過ぎて、五井(愛知県豊橋市下五井付近あるいは御油か)のこた橋、これとかや。夜はほのぼのと赤坂(愛知県宝飯郡音羽町赤坂)の糸繰りかけて、矢作(やはぎ。愛知県岡崎市矢作町)の宿。三河に掛けた八橋(愛知県知立市八ツ橋。蜘蛛手の枕詞)の蜘蛛手にものを思うだろうか。沢辺に匂うカキツバタ。花は咲かぬが、実は鳴海(愛知県名古屋市緑区内。)。

 とうこの地蔵(不詳)と、伏し拝み、一夜の宿をとりかねて、まだ夜は深い、星が崎(名古屋市南区内)、熱田の宮に車が着く。車の檀那がご覧になって、これほど涼しい(澄んで清い)宮を誰が熱田とつけたのか。熱田大明神を引き過ぎて、坂はないけれど、うたう坂(不詳)、新しいけれど、古渡(名古屋市中区古渡町)、緑の苗を引き植えて、黒田(愛知県葉栗郡木曾川町黒田)と聞くと、いつも頼もしいこの宿だ。

 杭瀬川(ぐんぜがわ)の川風が身に冷ややかに沁みる。小熊(おおくま。岐阜県羽島市熊野付近)河原を引き過ぎて、お急ぎなので、ほどもなく、ただの土の車を誰も引くとは思わないけれど、行を施す車のことであるので、美濃の国、青墓の宿(滋賀県大津市青墓町)、万屋の君の長殿の門に、何という因果の御縁やら、車が三日、うち捨てられていた。

 ああ、いたわしや。照手の姫は、お茶のための清水を汲んでいらっしゃるが、この餓鬼阿弥をご覧になって、こぼした愚痴こそ、哀れである。
 「夫の小栗殿様があのような姿をなされていようとも、浮き世にいらっしゃるものならば、これほど自分が辛苦を味わうとも、辛苦とは思うまいに」
 と、立ち寄り、胸札をご覧になる。

 「『この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養』と、書いてある。さて、一日の車道は、夫の小栗の御ためにも引きたいものよ。さてもう一日の車道を十人の殿原たちの御ためにも引きたいものよ。二日引いた車道を必ず一日で戻るとして、三日の暇が欲しいものよ。御機嫌のよいときを見定めた上で、暇を乞いたいものだ」
 とお思いになり、君の長のもとへお向かいになったが、
 「自分は昔、御奉公申したときに、夫のないことを申したのに、いま、夫の御ためと申すものならば、暇をくださるまい」
 と、お思いになり、
 「両親はまだ生きていらっしゃるけれど、両親のことにして、暇を乞おう」
 と、お思いになり、また、長殿のもとへいらっしゃって、
 「のういかに、長殿様。門にいらっしゃる餓鬼阿弥を胸札を見てみると、『この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養』と、書いてある。さて、一日の車道は、父の御ためにも引きたく、さてもう一日の車道は母の御ためにも引きたいのです。二日引いた車道を必ず一日で戻るので、情けに三日の暇をくださいませ」

 君の長はお聞きになって、
 「さても汝は憎いことを申すものよ。昔、遊女になれと申したその折に、遊女になっていたものならば、三日はもちろんのこと、十日なりとも暇を取らせようが、カラスの頭が白くなって、馬に角が生えるとも、暇は取らすまいぞ、常陸小萩」
 と申すのである。

 照手はこれをお聞きになって、
 「のういかに、長殿様。これは譬えではございませんが、費長房や丁令威は、鶴の翼に宿られ、達磨尊者のいにしえは芦の葉に宿られ、張博望のいにしえは浮き木に宿られたとか。旅は心、世は情け、さて、回船は浦に停泊し、捨て子は村で育みます。木があるから鳥も棲み、港があるから船も入る。一時雨、一村雨の雨宿り、これも百生の縁ではないでしょうか。
 三日の暇をくださるものならば、もしも将来、君の長夫婦の御身の上に大事のあるその折は、ひき替わり、私が身替わりになって立ち申し上げますので、情けに三日の暇をくださいませ」

 君の長はお聞きになって、
 「さても汝は優しいことを申すものよ。暇を取らすまいとは思うけれども、もしも将来、君の長夫婦の御身の上に大事のあるその折は、ひき替わり、身替わりになって立とうと申した、一言の言葉により、慈悲に情けをあい添えて、五日の暇を取らすぞ。五日が六日になるものならば、両親をも阿鼻無間劫に堕とすぞ。車を引けい」
 と申された。

 照手はこれをお聞きになって、あまりの嬉しさに、裸足で走り出て、車の手縄にすがりつき、一引き引いたは、千僧供養、夫の小栗の御ためである、二引き引いたは、万僧供養、これは十人の殿原たちの御ためといって、心をこめて回向をなされていたが、
 「聞くところによると、私はなりと形がよいと聞くので、町や宿や関々で浮き名を立てられてはかなわない」と、また、長殿の宿屋に駈け戻り、古い烏帽子を申し受け、さんての髪(不詳)に結びつけ、身長と等しい黒髪をさっと乱して、顔には油煙の炭をお塗りになり、お召しになっている小袖を裾を肩へと召しないて(?)、笹の葉に幣をつけ、心は狂ってはいないけれど、姿を狂気に装って、引けよ、引けよ、子供ども、ものに狂ってみせようぞと、姫が涙は、垂井の宿。美濃と近江の境にある長競(たけくらべ。滋賀県坂田郡山東町長久寺)、二本杉(不詳)、寝物語(長競を美濃ではこう呼んだという)を引き過ぎて、高宮河原(滋賀県彦根市高宮町)に鳴くヒバリ、姫を問うかよ、やさしいな。

 御代は治まる武佐(むさ。滋賀県近江八幡市武佐町)の宿、鏡(滋賀県蒲生郡竜王町鏡付近)の宿に車が着く。照手はこれをお聞きになって、人は鏡と言うならば言え、姫の心は、このほどは、あれと申し、これと言い、あの餓鬼阿弥に心の闇がかき曇り、鏡の宿をも見ることはできない。姫の裾に露は浮かないけれど、草津の宿、野路(滋賀県草津市野路町)、篠原を引き過ぎて、三国一の瀬田の唐橋を、えいさらえいと、引き渡し、石山寺の夜の鐘が耳のそびえて、格別よい。馬場、松本(ともに滋賀県大津市内)を引き過ぎて、お急ぎになると、ほどもなく、西近江に隠れなき上り大津、関寺、玉屋の門に車が着く。

 照手はこれをご覧になって、あの餓鬼阿弥に添い馴れ申すのも今夜ばかりとお思いになり、宿屋に宿も取らず、この餓鬼阿弥の車のわだちを枕となされ、八声の鳥(夜明け方にしばしば鳴く鶏)はないけれども、夜通し泣いて夜を明かす。

 午前四時ころ、空が明けると、玉屋殿へいらっしゃって、料紙と硯をお借りになり、この餓鬼阿弥の胸札に書き添えなされた。
 「海道七か国に、車を引いた人は多くとも、美濃の国、青墓の宿、万屋の君の下働きの水仕女、常陸小萩という姫、青墓の宿から上り大津や関寺まで引いてさしあげた。熊野本宮、湯の峯にお入りになって、病い本復したならば、必ずお帰りの際には、一夜の宿を万屋にお取りくだされ。かえすがえす」
 とお書きになる。

 何という因果の御縁やら、蓬莱の山の御座敷で夫の小栗に死に別れたのも、この餓鬼阿弥と別れるのも、どちらも思いは同じもの。ああ、身が二つあったあったならば。一つは君の長殿に戻したい。もう一つの身はこの餓鬼阿弥の車を引いてとらせたい。心は二つ、身は一つ。見送り、たたずんでいらっしゃるが、お急ぎになれば、ほどもなく君の長殿の宿屋にお戻りになったのは、哀れなことでございます。

 

 

時衆

 小栗が塚から這い出てきました。口もきけず、耳も聞こえず、目も見えない。餓鬼のような異様な姿で這い回る小栗。
 そんな小栗を藤沢の上人が見つけました。
 神奈川県藤沢市には時宗(じしゅう)の総本山、遊行寺(ゆぎょうじ。正式名は清浄光寺(しょうじょうこうじ))があります。

 時宗とは、かつては時衆と書かれ、鎌倉時代に一遍上人(1239~89)が起こし、一遍上人のカリスマ性と「踊り念仏」により、上は大名から下は非人・乞食まで日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新興仏教の一派です。
 藤沢の上人が物語の上で重要な役割を果たすことから、この物語の成立に時衆の念仏聖が関与したことが確実と思われます。

 藤沢の上人がつけた小栗につけた「餓鬼阿弥」という阿弥号(あみごう)のついた名前も時衆らしい名前です。
 室町時代の文化を語る上で外すことのできないのが同朋衆(どうぼうしゅう。童坊衆とも)の存在ですが、同朋衆は、能阿弥・芸阿弥・相阿弥など、すべて阿弥号をもつために阿弥衆とも呼ばれました。

 もともと同朋衆とは時衆の信徒を中心にした同行集団で、鎌倉時代末期から南北朝にかけては、武将に同行し、従軍僧として働きました。負傷者が出れば治療し、死者が出れば菩提を弔い、また合戦のないときには、和歌や連歌、茶の湯をはじめ様々な雑務に仕えていました。
 同朋衆は、室町時代に幕府の職制に組み込まれ、やがて将軍に近侍して、芸事や様々な雑務を担当するようになります。

 足利将軍に仕えた同朋衆は、芸術顧問役を勤め、文化芸能の世界に多大な影響力を行使しました。いわば室町時代の文化の中心にいたのが同朋衆だったのです。
 父子三代の画家で三阿弥と称された能阿弥・芸阿弥・相阿弥、猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥や立花(たてはな)の文阿弥・宣阿弥・正阿弥、香・茶の千阿弥など、同朋衆や時衆の信徒で後世に名を残した芸能者は大勢います。

 また、これから小栗が目指す熊野本宮は、時衆にとって根本霊場といってもよいようなとても大切な場所です。
 時衆の開祖・一遍上人は、熊野本宮において熊野権現の夢告を受け、ある種の宗教的な覚醒に到ったのです。一遍上人自らが「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」と述べており、時衆の念仏聖たちは熊野を特別な聖なる場所と認識していました。

 南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのが、じつは、修験道でもなく、ましてや神道でもなく、時衆の念仏聖たちでした。熊野の勧進権を独占した時衆の念仏聖たちは、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広め、老若男女庶民による「蟻の熊野詣」状態を生み出したのでした。

小栗街道

 鎌倉から室町時代にわたって鎌倉と京都を結ぶ幹線道路であった鎌倉街道という道がありました。その当時の幹線道路を、物語上のことですが、小栗は餓鬼阿弥として土車の乗せられて引かれていきました。そのため、鎌倉街道は地域によっては「小栗街道」とも呼ばれ、街道筋には現在でも小栗や照手にちなむ地名も所々見受けられます。

 物語上の人物である小栗の名が幹線道路や場所の名前に付けられるとは、ものすごいことだと思いますが、それほどに小栗判官の物語は大勢の人々の共感を呼んだということなのでしょう。
 鎌倉街道については、「かまくら道夢めぐり」「まちもよう」などのサイトをご参照くださいませ(この2つのサイトの管理人さんからは全国熊野神社参詣記にご投稿をいただいております)。

ハンセン病患者

 餓鬼阿弥はハンセン病患者がモデルだと考えられています。
 熊野はハンセン病者をも回復させることができる強力な浄化力をもつ場所だと考えられ、熊野本宮の湯の峰温泉には、大勢のハンセン病者が治癒の奇跡を求めてやってきました。

 熊野信仰が盛んであった中世においても、ハンセン病は前世の悪業の報いでかかる病気だとされ、ハンセン病者は最も穢れた存在とみなされていました。
 しかし、ただ忌み嫌われて排除されたというのではなく、中世においては、最も穢れた存在であるがゆえに、ハンセン病者に施しを与えることは、神仏の御心にかない、御利益を得ることができる善行であると考えられ、一般の人々がハンセン病者に救いの手を差し伸べるということもありました。

 藤沢の上人は、餓鬼阿弥の胸札に「この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養」という言葉を書きました。
 ハンセン病者に救いの手を差し伸べることは、千人、万人の僧に供養してもらうのに等しいのだ、と時衆の信徒たちは考えていたのでしょう。

 実際に鎌倉街道を通り、熊野を目指したハンセン病者は大勢いたものと思われます。そんなハンセン病者を、街道筋の人々や熊野を詣でる人々、熊野詣から帰ってきた人々が救いの手を差し伸べたのでしょう。
 小栗判官の物語にあるような一般の人々の手助けによって、体の不自由なハンセン病者も、熊野への過酷な旅を続けることができたのだと思います。

 熊野にはハンセン病者たちだけでなく、盲人たちも開眼の奇跡を求めてやってきました。
 しかし、目の見えない人たちがどうやって熊野までたどり着くことができたのか。
 熊野詣の道中で出会う人々の手助けなしにはたどり着くことは不可能だったのではないでしょうか。
 一般の人々の手助けがあったからこそ、ハンセン病者や盲人たちも熊野を詣でることができたのだと思います。

 小栗を乗せた土車は、照手の手を離れ、一般の人々の手により「えいさらえい、えいさらえい」と、熊野本宮、湯の峯の霊泉を目指して引かれていきます。

 

 

小栗判官史跡:熊野の観光名所

(てつ)

2002.12.12 UP
2002.12.13 更新
2002.12.14 更新
2002.12.15 更新

参考文献