丹鶴城趾に現れる物の怪の姫
新宮に伝わるもののけ姫、丹鶴姫(たんかくひめ)の伝説。新宮市の熊野川河口付近にある丹鶴城趾には、日暮れになるともののけの姫が出るという伝説があります。
新宮出身の作家、佐藤春夫の著作「わが生い立ち」より。
丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、 子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で子供をまねく。 招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。 その丹鶴姫の使いが黒い兎で、 子供の通る道の前をひよいと横切ることがある。 やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。 黒い兎なら暗がりのなかでは見えないかも知れない。自分の見ないつもりのうちに、 もしや黒い兎をみたのぢやないだらうか 私はそんな空想に怯えたこともあつた。 丹鶴姫といふのはどんな人だか知らないが、 城山の向ふの丘には一つの小さな社があつて、 そこを皆が丹鶴姫の祠だと言つてゐる。……
実在の丹鶴姫
物の怪となった「丹鶴姫」。
佐藤春夫の文章では、丹鶴城主の姫君が「丹鶴姫」だとされ、「丹鶴姫といふのはどんな人だか知らないが」 と書かれていますが、「丹鶴姫」と呼ばれる女性は平安末から鎌倉初めにかけて実在しました。
平安末から鎌倉初めにかけて実在した「丹鶴姫」は丹鶴城主の姫君ではありません。丹鶴城が築かれるずっと以前の人物です。丹鶴城は慶長6年(1601)に築城が開始された城で、丹鶴城の名はかつてその地に彼女が開いた東仙寺という寺があったことに由来します。
この平安末から鎌倉初めにかけて実在した丹鶴姫が物の怪となったのか。それとも、やはり江戸時代の丹鶴城主の姫君が物の怪となったのか。
もちろんわかりませんが、江戸時代の丹鶴城主の姫君が物の怪となり、それに「丹鶴姫」という古人の名が付けられたと考えるのがもっともらしいかな、とは思います。
源氏の娘
それはさておき平安末から鎌倉初めにかけて実在した丹鶴姫について。
彼女の父親は源為義(みなもとのためよし)でした。源為義は源頼朝・義経らの祖父。
源氏の子がなぜ熊野にいるのかというと、為義が院の熊野御幸に検非違使として随行した際のこと。第15代熊野別当長快の娘(「熊野の女房」または「立田の女房」と呼ばれた)を為義が見初めて結ばれました。娘は身籠り、生地の新宮で一女一男を産みました。その女児が丹鶴姫で、そして、男児が新宮十郎行家です。
丹鶴姫は「たつたはらの女房」とも呼ばれ、行範(第16代熊野別当長範の嫡男。後に第19代熊野別当になる)に嫁ぎ、夫の死後は出家して「鳥居禅尼」と名乗り、東仙寺を開き、夫の菩提を弔いつつ、我が子、範誉、行快、範命、行遍、行詮、行増らを育て上げました。
範誉は那智執行となり、行快は第22代熊野別当、範命は第23代熊野別当に。行遍は『新古今和歌集』の歌人「法橋行遍」として知られるようになり、行詮や行増は権別当になるなど、それぞれに活躍。また、20代熊野別当範智は彼女の義弟で、21代熊野別当湛増は彼女の娘婿。平家に親しかった熊野が源氏寄りになったのも、丹鶴姫(鳥居禅尼)の存在が大きかったのでしょう。
源平の乱後、丹鶴姫(鳥居禅尼)は、その功績によって、甥に当たる将軍頼朝から紀伊国佐野庄(現和歌山県新宮市佐野)、紀伊国湯橋(現和歌山市岩橋)、但馬国多々良岐庄(現兵庫県朝来町多々良木)などの地頭(じとう。鎌倉幕府の職名。年貢の取り立てや土地の管理を行ない、領域内の住民を支配した)に任命され、鎌倉幕府の御家人(ごけにん。鎌倉幕府の将軍直属の家臣)になりました。鎌倉将軍家の一族として、丹鶴姫(鳥居禅尼)は、熊野内外で絶大な勢力を振るったものと思われます。
(てつ)
2006.8.25 UP
参考文献
- 『定本 佐藤春夫全集 第5巻(創作3)』臨川書店(引用箇所は93頁)
- 『新宮モダン』新宮市観光協会