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弁慶物語5 義経

弁慶物語 現代語訳5 義経

 1 弁慶誕生 2 比叡山 3 武具揃え 4 喧嘩修行
 5 義経 6 平家一門 7 吉内左衛門 8 脱出


弁慶産湯の釜
義経の笛、闘鶏神社所蔵

 このようなところに、弁慶は、「ああ、よい相手が欲しいものだ。喧嘩して慰めよう、この手持ち無沙汰を」と言いながら、東寺(京都市南区九条町の教王護国寺の通称。真言宗東寺派の総本山)を目指して下ったが、道行く人が言ったことには、「この辺では、天狗が荒れて鞍馬(くらま。京都市左京区にある山。鞍馬山中腹に鞍馬寺がある。源義経が幼少時にこの寺に籠り修行し、天狗に兵法を習ったと伝えられる)の奥より夜な夜な出てきて、数えきれないほど人を斬っている」と言う。
 弁慶は聞いて嬉しがり、「人間界の者では満足しない、そのような奢り高ぶる者(天狗は前世において増長驕慢に過ぎた者がなるとされていた)に腕前を見せよう」と思って、東寺より引き返し、都に入り、「ああ、日が早く暮れてくれよ。愛宕山(あたごやま。京都市右京区嵯峨愛宕町にある山)の大天狗、比叡山の小天狗なりともひとつ喧嘩をしよう」と、立ったり坐ったり、また起きたり寝たりして、夜になるのを待った。

 頃は六月十五日の夜のことであるが、洛中をここかしこと伺い見るけれども、相応な者もいなかった。そろりそろりと歩み行くうちに、北野天満宮(京都市上京区にある天神信仰の中心地)に参った。武蔵のその夜の装束は、いつも好んだ通りなので、白い帷子(かたびら。裏をつけない衣服)の脇を深く解かせ、褐(かちん。藍色)の鎧の直垂に黒糸威の腹巻に、雲に竜の小手を差し、白檀磨きの脛当に、四尺余りの大太刀を鐺(こじり。刀剣の鞘の末端)を高くして刀を佩くようにして、一方に向けて、八尺余りの八角棒、左右に石突を取り付け、ところどころに金疣(かないぼ)を打たせ、中の手で握る部分を琴の弦でしっかりと巻き固めて、左手の脇に挟み込んで、神前の広場に仁王立ちに立っていた。

 御曹子(義経。源義朝の九男。血筋正しい家柄の子ということから御曹子と通称された)のその夜の装束は、白い袷(あわせ。裏表別の布を合わせて作った衣服)を交差させて、精好の大口に浅黄(あさぎ。薄い青色)の直垂、を召し、薄化粧し、歯は黒く染め、薄衣(うすぎぬ。薄い着物)を取って頭にかぶり、黄金作りの御佩刀(おんばかせ。貴人の刀剣の敬称)を脇に横に向けて佩き、社壇の御前に腰を掛け、念誦していらっしゃった。

 かの弁慶の姿をご覧になって、「何となく怪し気な様子だなあ。西塔の武蔵坊弁慶といって、日本一の不届き者がいると聞いたが、もしかしたらそれであろうか。それも人間界の者であれば、これほどに色が黒く、背は高くはよもやあるまい。愛宕、比良(滋賀県滋賀郡志賀町の山岳地帯)の天狗は義経に慣れているので、たいがい見知って覚えている。どう見ても鬼満国(きまんごく。想像上の鬼の国)の鬼神が、私を悩まそうと来たのだろうか」と、ご覧になっているところに、

 弁慶が思うことには、ここにいる男の立派で気高いことよ。これがあの噂に聞く牛若殿であろうか。たとい何でもあってもよい。あれほどの小男がいかほどのことがあろうかと、これ念誦する様子で、もっとよく姿を見んがために、苛高の数珠(いらたかのじゅず。平たくて角ばっている玉の数珠。揉むと大きな音を立てる)を取り出し、真言(梵語の呪文)でもなし、お経でもなし、舌でごまかして、ただ「ろんろん」と言い、後には「ぐれんぐれん」と言って、数珠を押し摺って、その間に御曹子の風情を見たところ、人とは一風変わって、眼光が鋭くて、上の前歯が少し前に反って出て(出っ歯のこと)、色白で気高くいらっしゃった。

 お持ちになる御佩刀は黄金作りのように見て、奪うことはとても容易いとして、ざっと値踏みをした。これを書写山に献上すれば、一坊の造立の手助けにはなるだろう。どの程度の刀身であろうか。早いところ、打ち落として見ようと思って、一、二度前を通ったが、三度目に脇に挟んでいる八尺棒を取り直し、ちょうど(物と物とが打ち合う音を表わす語)と打つ。
 御曹子はご覧になって、弾に慣れた鳥の風情、騒ぐ様子もなく、御佩刀をするりと抜きかかり、はっしと合わせ、弓杖(ゆんづえ。弦を張らない弓の長さ。約2.5m)三杖分ほど跳ね越え、「夜陰のことであるので、人違いか。あの御坊」とおっしゃった。
弁慶はこれを聞き、「憎い男の僧のような口振りよ。手並みを見せようか」と言いながら、間髪を入れずにかかった。

 御曹子はご覧になって、この御坊の振る舞いを見ようとお思いになり、かっぱと打つと、ちょうどと遮って、左右に受け流し、御坊の手並みのほどをご覧じたのこそ恐ろしい。
 「あいつは棒は上手である。兵法を知らなければ、この御坊に討たれてしまうとも思われない。ならば、手並みを見せよう」と言って、使っていた八尺棒を一寸遠ざかってはずんどと斬り、二寸遠ざかってはずんどと斬り、切れ切れにお斬りになるので、弁慶が思うことには、ちょっとのことであるが、この冠者(かんじゃ。元服して間もない若者)の太刀の使い様のおもしろさよ、誉めたいものだと思って、「あ、斬ったな、小冠者」と二、三度誉めて大声を立てて騒ぎ、件の大太刀をするりと抜き、「逃がさないぞ」と言ってかかった。

 御曹子はご覧になって、「何の恨みだ、御坊よ。出家の姿なので、命は助けるぞ。早く退散しろ」と仰せになる。
 弁慶はこれを聞いて一層心穏やかでなくなって、「お前の命を助けるかどうかは、この法師の思うがままであるのに、逆に私を許そうだと。言葉の勝負は無駄である。行くぞ」と言いながら、間髪を入れずにかかった。

 御曹子は鞍馬の奥、僧正が谷(鞍馬寺と貴船神社との間にある谷あい。天狗が住むとされた)で、兵法を極めた。弁慶は三塔で広く世に知られた太刀の上手である。ノミとヤスリと、岩と金とのように鍔鉄(つばがね。鍔の金属部)を鳴らし、しのぎを削り半時(はんじ。現在の約1時間)ほど戦った。
 弁慶が打つ太刀は、御曹子の腰の辺りを間髪入れず狙った。御曹子の御佩刀の切っ先は、弁慶の首の辺りをひっきりなしにひらめいた。

 御曹子がお思いになることには、この御坊の首を打ち落とすのは簡単であるけれども、あいつはあれこれの事情を申すまでもない強敵である。命を助けておき、召し使おうとお思いになり、小鷹をお呼びになり、その飛翔力を利用して、虚空に上がりなさった。拳を強く握り、弁慶の頭を、割れて退散しろと、二、三度、殴られた。弁慶は目が眩み、太刀を支えにして立っていた。
 そのとき、御曹子は御佩刀の「みね」で弁慶の二の腕をお打ちになり、太刀をお打ち落としになったので、武蔵坊は木から離れた猿のように(頼みどころを失って途方に暮れることのたとえ)、あっけにとられて立っていた。

 その後、御曹子が仰せになることには、「おい、御坊、太刀を惜しいとは思わないか。惜しければ与えよう。さあさあ」とおっしゃったけれども、しばらくは返事もしなかったが、ややあって思ったことには、多くの者に会ったけれども、これほどに短時間で目論見にも及ばず負けたことは今までなかった。
 「腹が立つことよ」とつぶやいたが、太刀を欲しがってくれるところを、取って引き寄せ、組み伏せて、今の遺恨を晴らそうと思い、「私の物なので惜しい。お与えください」と申し上げる。

 「それ、与えよう」とおっしゃって、立って近寄りなさるのを見ると、二十歳にはよもや届くまい。あれほどの小冠者にどのような力があるのかと、組もうと思って、太刀を取るでもてなし、組もうとするところで、御曹子はご覧になって、ちらりとはずし、八尺の築地をひらりと跳ね越えなさったので、弁慶は不思議に思って、「さては人間界の人ではなかったのか。天神が変じなさり、出家の姿でありながら、甲冑を身に付けて、悪を好んだのを戒めなさると考える。人間界の人ならば、このように恥ずかしく弁慶が負けることはあるまい。なるほど負けたのももっともなことである。神が憎いととお思いになるのも当然である。流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者(出家剃髪の式の時に唱える偈文の冒頭句)」と唱え、

 「私は出家の身として、頭を剃り、心は剃っていない。衣を染めて、心を染めていない。ただ悪だけを技芸として一善の蓄えもない。神の御心に合わないのももっともである。そうであるならば、命をお絶ちにならない神仏の慈悲のありがたさよ」と、神前に参って、慚愧懺悔して、もとより悪を好むけれども、経典、経典以外の書に暗くなく、道理をわきまえた剛の者であって、一晩中、経を読み、罪障を告白し、声を上げて泣いて、後悔したものの少しの間の道心(仏法に帰依する信仰心)である。

 その後、神前を下がり、帰路について、五、六町(1町は約109m)行って思ったことには、ともかくも先の小男はほんとうに神でいらっしゃるのか。もし、人間界の者ならば、道心を起こして、その後に会うのも、思えば恥ずかしい。
 ここ三ヶ月の間は道心を起こすまい。もし人間界の者ならば、三ヶ月のうちに会わないことはあるまい。三ヶ月のうちに会わなければ、堅固な道心を起こして、後生菩提(来世に極楽に生まれ変わること)を念じようと思って、下向の途中で神への信心をおろそかにして、京、坂本(今の大津市坂本)を尋ねたが、頃は七月十四日の夜、弁慶はいつもの装束で、長刀を杖に突いて、法性寺(ほっしょうじ。京都市東山区本町にある)の方へ行ったところ、気高い笛の音が聞こえた。
 「どこであろうか」と尋ねみると、件の男が吹いていた。
 「さては神ではいらっしゃらない。人間界の者であったぞ」と、たいへん無念さが増さった。隙があればと思うけれども、少しも油断が見えないので、そこでは理由もなく逃した。

 また、八月十七日の夜、清水(きよみず。京都市東山区清水坂上にある音羽山清水寺のこと)へ件の男が参るだろうかと思い、清水を目指して参った(清水寺の本尊は十一面千手観音で、月の十八日は観音の縁日とされ、前日からの通夜籠りや当日の参詣で賑わった)。
 御堂の内を見ていると、案の定、例の小男が御前で念誦して坐っていた。
 弁慶が心に思うことには、どのようなことでも難癖をつけて座から追い立ててやろうと思って、おそば近くに寄って立ち、「どこのしきたりでも出家を最優先とする。そうであるので、御堂の左座(ひだりざ。第一番の座席)は私こそが坐るべきであるのに、まったくの俗人の身で左座とは納得できない」と笑った。

 御曹子はお聞きになり、「不思議なことをおっしゃることだなあ。仏が、仏法が行き渡った御時世での四種の弟子(出家の比丘・比丘尼の衆と在家の優婆塞・優婆夷の衆のこと)を俗人といって嫌うことがあるのか。そのうえ、御身は頭は法師に似ているけれども、甲冑を帯し、悪逆をお好みになるので、かえって法師の名を汚している。衣を着、袈裟を掛け、経まではないとしても、仏の御名を唱えるのならば、私が坐る場所を引き退いて、あなたを招き入れるべきであるが、あれこれと欠けている御坊に何の恐れをなすべきか」とからからとお笑いになったので、

 これほどの群集のなかで、そっけない言葉を返されたのを何よりも無念であると、心の内で思いながら、「もしもし、冠者殿、聞いてください。二人の間に契りがあるのだろうか、再々参り会うのは不思議である。高言は無駄である。賭けて勝負を決しよう」と言ったので、御曹子はお聞きになり、「それは望んでいたところである。何を賭けよう」とおっしゃると、弁慶が申し上げたことには、「御身がお負けになったならば、私に使われください。私が打ち負けたならば、必ずお仕え申し上げよう」と言ったので、御曹子はお聞きになり、「日頃、この御坊の手並みのほどはよく知って、使いたく思っていたが、天の与えか、嬉しいなあ。使いたいものだ」とお思いになり、「まったくおもしろい御坊だ。場所はどこで」とおっしゃると、「五条河原が広々としてよい」と言う。

 御曹子はお聞きになり、「それはまったく御坊の逃げる算段かと思われる。しかしながら、御坊が好むところを嫌えば、私がまた未熟であるように思われるだろう。さあ、連れ立って行こう」と言って、清水を下向して、五条の橋の真ん中を勝負場所に定めた。
 弁慶は長刀の鞘を外し、今を最期の勝負と思って、ここを最期と思って戦った。御曹子も今こそ主従の決まる勝負であるのでと思って、秘術を振るってお戦いになる。いつ勝負がつくものかもわからなかった。

 左右へさっと引き下がり、しばらく息を継ぎ、弁慶が心に思うことには、どう見ても、これは源九郎義経でいらっしゃるのだなあ。そうでなければ、これほどに弁慶の手に応える者はこの世に思い出せない。この度、勝負を付けるのに、無理して私がもし討ち死にして後に、誰ともわからないのも無念であろう。互いに実名を名乗るべきだ。
 「名乗りください」と言ったところ、御曹子がお聞きになり、誰もがそうは思っているけれども、まず御曹子がお名乗りになる。

 「私は六孫王(源経基(つねもと)。清和源氏の祖)から六代、多田満仲(ただのみつなか。源満仲。摂津の多田に住んだことから多田源氏を称した)から三代、下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)義朝の御子、牛若丸。幼少の時より鞍馬の寺に登り、学問し、その後、鞍馬の奥、僧正が谷で天狗に会い、兵法の奥義を極めた私である」とお名乗りになる。
 弁慶はこれを聞き、「やはりそうだ。只人ではないと思っていたが、さては牛若殿でいらっしゃるか。私は熊野の別当弁心の子、西塔の武蔵坊弁慶である。参ります」と言って、かかっていった。

 御曹子はご覧になって、いつまで適当にあしらおうか。勝負を付けようとお思いになり、宙にさっと舞い上がり、弁慶の首の辺りを、深手を付けないで、七ケ所まで浅手を負わせなさった。
 弁慶はそのとき、引き退き、どう考えても、たちうちできないだろう。どのように斬ったところで、その傷跡が目に見えるように斬るはずのものである。斬り手の様子もおもしろい。命を絶たないで傷をお付けになるのは、弁慶を欲しくてお思いになるからである。これほどに思われ申して、どうしてお仕え申し上げないことができようかと、心の内で思いながら、

 「もしもし、御曹子、お聞きください。弁慶ほどの従者をどのようにお思いになるとも、類少ないでしょう。私もまた、御曹子ほどの主君を頼み申し上げることも難しいでしょう。必ず何らかのお力になり申しましょう」と頭を地に付け、降参を申し上げた。
 「さあ、それならば、供せよ」とおっしゃる。弁慶がお供申し上げて、御曹子は九条の御所へお帰りになる。

 

 

熊野観光プラン:弁慶をめぐる旅

(てつ)

2003.6.13 UP
2019.7.9 更新

参考文献