熊野九十九王子のうちで格別の崇敬を受けた五体王子の1つ
熊野古道「中辺路(なかへち)」。八上王子と一ノ瀬王子の間に位置する稲葉根王子。
鎌倉時代末期、正中3年(1326年)の仁和寺所蔵の『熊野縁起』には「稲羽金剛童子、稲荷形也」とあり、また稲葉根王子の地を稲荷神の発祥とする説もありました。
稲葉根王子は上富田町岩田、Vショップというスーパーの近くにあります。
稲葉根王子バス停から稲葉根王子へ向かう道。
バス停から徒歩5分で稲葉根王子へ。
境内には句碑が二つ。
月一つ神楽のすみし田の上に
春風の 一日のみち 長からし 素十
境内にはかつて大きなクスノキがあって(高さ50m、幹周り15m)、その根元に洞があり、そのなかで寝泊まりする者もいたといいます。今はもうありませんが、ここから熊野三山を詣でてまたここへ戻って来るまで7日間かかったので、「七日詣りの楠」と呼ばれたそうです。
平安時代、天仁2年(1109年)の藤原宗忠の『中右記』の10月22日の記事に「伊奈波祢王子社に参り奉幣」とあるのがこの王子の史料上の初見です。
鎌倉時代初期、建仁元年(1201年)の藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、10月13日の記事に「次にヤカミ王子、次に稲葉根王子〔この王子は五躰王子に准じて事ごとに分に過ぎるとのこと。御幸の儀式は五躰王子と同じにするとのこと〕。次に昼養の宿所に入る。馬はこの場所より停めて師に預け置き、これより歩いて、石田川を徒渉し、まず一ノ瀬王子に参り、徒渉し次にアイカ王子(※鮎川王子)に参る」とあります。
承元4年(1210年)の藤原頼資の『修明門院熊野御幸記』には、4月28日の記事に「次に稲葉根山麓を、稲葉根王子に参御。御奉幣以下、常のごとし〔八女8人、唱人2人、各々白布1反をお与えになる。懺法僧20口、各々米1斗を供える。布1反をお与えになる〕。五体王子のため、御先達以下、馴子舞」とあり、この時期には五体王子となっています。
室町時代、応永34年(1427年)の足利義満の側室北野殿の熊野参詣の記録『熊野詣日記』9月26日の記事にも「いなはねの王子(五躰王子)の御神楽、御奉幣は常の如し」とあります。
江戸時代には、稲葉根王子は「岩田王子」とも呼ばれ、岩田村の産土神とされました。社殿もあり、末社として稲荷社も祀られていました。
しかし、大正4年(1915年)に岩田神社へ合祀されて翌年に社殿を移されたが、昭和31年(1956年)に旧社地へ分霊を移し復社。昭和33年(1958年)4月1日に和歌山県指定史跡に指定されました。
聖なる川
中世の熊野詣は、極楽往生を遂げる、そのための予行演習のようなものでしたのでしたので、どこかでいったん死ななければなりませんでした(儀礼的な意味で)。
そのための場所が稲葉根王子の近くを流れる石田川でした。石田川は、中世の熊野詣のメインルート中辺路(なかへち)を歩く参詣者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川です。
初めて出会う熊野から流れる清らかな川は死の舞台にふさわしく、熊野詣の道中で最も神聖視されたこの川は三途の川に見立てられました。
「三途の川を渡る」といいますが、熊野参詣者は石田川を渡ることで儀礼的に死ぬことになるのです。
その聖なる流れは強力な浄化力をもち、川を徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができるとされました。参詣者は浄められながら死ぬことができました。
参詣者が初めて岩田川に出会う稲葉根王子から熊野の霊域の入り口である滝尻王子まで、道者は何度と岩田川を徒歩で渡りました。何度も何度も岩田川を徒渉して、道者はその死と浄化の体験をを深めていきました。
(てつ)
2009.5.5 UP
2009.8.15 更新
2011.12.8 更新
2021.2.26 更新
参考文献
- くまの文庫4『熊野中辺路 古道と王子社』熊野中辺路刊行会
- くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会
- 本宮町史編さん委員会『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』本宮町
- 上富田町文化教室シリーズ 稲葉根王子跡
稲葉根王子神社へ
アクセス:JR紀伊田辺駅から龍神バス栗栖川・熊野本宮行きで約30分、稲葉根王子バス停下車、徒歩5分
駐車場:なし