■ 熊野古道 九十九王子 |
||||||
|
|
|||||
◆ 一ノ瀬王子(いちのせおうじ) 和歌山県西牟婁郡上富田町一ノ瀬小山 市瀬村:紀伊続風土記(現代語訳) |
||||||
熊野古道「中辺路(なかへち)」。稲葉根王子と鮎川王子の間に一ノ瀬王子はあります。大きな楠が1本あるので、それを目当てに。 建仁元年(1201年)の藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、10月13日の記事に、「次に稲葉根王子。次に昼養の宿所に入る。馬はこの場所より停めて師に預け置き、これより歩いて、石田川を徒渉し、まず一ノ瀬王子に参り、徒渉し次にアイカ王子に参る。川の間は紅葉の浅深の影が波に映じて、風景が素晴らしい」とあります。 案内板より。
合祀された後、跡地は竹藪に戻り、「藪中王子」と呼ばれたとか。 境内には句碑がひとつ。 竹皮をしきりに脱いで十五子 秀太郎
中世、熊野は浄土の地であると見なされました。したがって熊野詣は、極楽往生するための予行演習のようなものでした。 しかし、極楽往生するには死ななければなりません(儀礼的な意味で)。 そのための場所が岩田川でした。岩田川は、中世の熊野詣のメインルート中辺路(なかへち)を歩く道者が初めて出会う熊野の霊域から流れ出ている川です。 その聖なる流れは強力な浄化力をもち、川を徒歩で渡ることで罪業をぬぐいさることができるとされました。道者は浄められながら死ぬことができました。 承元4年(1210年)の藤原頼資の『修明門院熊野御幸記』には、4月28日の記事には、「次に石田一瀬において御昼養がある。岸の上に仮屋を構える。宮に行くに及ばない。次に出御。人々が一瀬を渡る。予も同じく相従う。しかれども昨夜から甚だしい雨がやなまいので、河の水は只今欲増の程である。御歩きあるべきか否か、御先達が令下許定。御幸が遅々としている間、人々はまた渡され返る。予はまた相従う。水已出之間、水限は胸にまで及んだ。しかれどもなお指示がある。御輿に乗り、一瀬をお渡りになる。予は堪らず水を行く間、苔の路を避けた」とあり、その後、第六瀬を渡るときに9人の人が流されて亡くなったことを記しています。 (てつ) 2009.6.3 UP ◆ 参考文献
|
楽天おすすめ商品 |
|||||