熊野の本地6 熊野午王宝印
1 熊野十二所権現 2 五衰殿の女御 3 異常出産 4 捨て子 5 八咫烏の導き 6 熊野牛王宝印
『神道集』巻二の六「熊野権現の事」より現代語訳6
三所権現と申すのは、証誠殿(しょうじょうでん)、中の宮、西の宮の三所のことである。証誠殿と申すのは、本地は阿弥陀如来、昔の喜見聖人がこれである。また、中の宮と申すのは、昔の善財王のことである。西の宮と申すのは、本地は千手観音、昔の五衰殿の女御がこれである。
ゆえに証誠殿の誓いは他の神達に超えているのである。「八相成道の暁まで結縁(けちえん)の衆生は見捨てまい」とお誓いなさっている。熊野権現の誓いは、「一度、我が山に参詣した者ならば、たとえ三悪道(地獄道、餓鬼道、畜生道)に至ったとしても、その参詣のしるしを見つけ出して、救いとろう」とお誓いなさった。そのときのしるしというのは、参詣した時にいただく「牛玉宝印(ごおうほういん)」、これのことである。
人皇第十代崇神天皇の御時にまた、社が一所、顕われなさった。証誠殿の左に顕われなさった。善財王の御子、若一王子(にゃくいちおうじ)がこれである。
人皇第十一代垂仁天皇の御時に、残りの八十四所の社が顕われなさった。総じて、九所の社は、みな山内に顕われなさった。合わせると、十二所権現である。その他の王子達は東西にあって、道をお守りなさっている。
999人の后達は追ってきたけれども、何事もなく、赤虫(ツツガムシ科のダニ。成虫で1~2mm。体色は赤)という虫になった。そうして、本宮の赤坂(未詳)という所まで来て、ここに九品の浄土に模して結界してあったため、三悪道に落ちることだけはのがれたのである。ここを熊野権現というのは申すのも愚かなことだが、金剛界の地である。
同じ帝(垂仁天皇)の御時、諸国に大疫病が起こった。これは昔、インドのヴァイシャーリー城に発生した病気である。帝は大いに驚きになられて、たくさんの社を国々に祭り置かれた。すべて合わせて3742所である。「三千七百余社の日本の鎮守」と申すのはこれである。
これはいずれの帝の御時であったかというと、人皇第二代の綏靖(すいぜい)天皇の御時。綏靖天皇と申す帝は、朝に夕に人を7人食らいなさった。臣下は何よりもこのことを嘆いた。誰ひとり生き残れるとも思われず悲しんだ。
ある臣下がこの帝を滅ぼそうと提議して、「この帝を戴いていたら、国土は乱れ、人民の嘆きは絶えない。祖父の鵜羽葺不合尊(ウガヤフキアワセズノミコト。あるいは、ウガヤフキアエズノミコト。ホオリノミコト[山幸彦]とトヨタマヒメノミコト[その正体は大きな鰐]の子。神武天皇の父)は836412年を治めなさった。人皇の代となってから、悲しいことに末代となって、神武天皇は120年を治めなさった。この帝も100年、200年、300年と御在世なさると思うが、その間、多くの人の命が失われるだろう。『何月何日に火の雨が降る』と偽りの発表をして、諸国に使いを廻らしなさい。いま命の惜しいものは、岩屋を作ってその中に籠り、難を避けよ」と告げられた。
人々はみな心を迷わして、各々に岩屋を作り構えた。諸国に塚が多くあるのはこのときの岩屋である。都では、その日を定め、内裏の岩屋を作った。「国王もその日が過ぎるまで、お入りになってください」と、公卿3人、殿上人2人、女房2人を付け参らせて、摩利の柱(未詳)を立て、下から人が上がろうのも上がれないようにしてその中に収めた。その後はどうなったともわからない。悪王と善王とを引き換えてしまったのである。
そもそも「三千七百余社の日本の鎮守」は、熊野のことはとりたてていうまでもないが、すべて、金剛界・胎蔵、両部の曼荼羅の地である。鎮守の第一は伊勢大神宮である。これはつまり天照大神の心を推察するに、天照大神と神武天皇とは同体であろう。それはなぜかというと、惣当(そうとう)明神ともいうし、鋳師(いもじ)明神ともいうからである。
これは天照大神が天の岩戸に隠るとき、「子孫に見せるために御姿を鋳留めるべきです」と申し上げると、天照大神は「もっともなことである」といって、御姿を鋳留めさせて残しなさった。これを内侍所(ないしどころ。三種の神器のひとつの八咫鏡[やたのかがみ]のこと)という。この内侍所を鋳師の大明神が預かりなさって、神武天皇の時にお渡し申し上げなさった。祖父.曾祖父の形見として崇めたてまつりなさった。
人皇第9代の帝・開化天皇の御時までは同じ御殿の同じ床におられたが、崇神天皇の御時、天つ社と国つ社とを定めなさったとき、恐れをなして、内侍所を別の御殿に移し申し上げることとなり、温明殿(うんめいでん。紫宸殿の東南にある殿舎)にお置きになられた。内侍所の第一の守護神は熊野権現である。
牛玉宝印
牛玉宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。
牛玉(ごおう。牛王とも書きます)という不思議な名は、牛黄(ごおう。牛の胆嚢ににできる結石で、貴重な霊薬として用いられます)を印色としてお札の朱印に用いていたことに由来するとの説があります。
牛玉宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われてきました。牛玉宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされていました。
その牛王宝印を熊野ではカラス文字を使ってデザインしています。カラス文字といわれても、想像もつかないと思いますが、ひとつひとつの文字が数羽のカラス(と宝珠)で表されているのです。そのため、熊野の牛王宝印は俗に「おカラスさん」とも呼ばれます。下の画像は熊野本宮大社の牛王宝印です。
熊野の牛王宝印は、三山それぞれ、デザインが若干異なりますが、1枚の紙に5つの文字がカラス文字と宝珠で図案化されて記されています。
本宮と新宮の牛王宝印には「熊野山宝印」、那智の牛王宝印には「那智瀧宝印」と記されています。
時代によってカラスの数は増減していますが、現在の牛王では、本宮は88羽、新宮は48羽、那智は72羽のカラス文字で五つの文字が表わされています(上の写真は本宮の牛王宝印)。
様々な寺社から発行されていた牛王のなかでもっとも神聖視されていたのが、熊野の牛王でした。とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われたそうです。『吾妻鏡』には、源義経が兄・頼朝に自らの誠実を示すための誓約文を熊野牛王に書いたことが記されています(しかし、義経の嘆願は頼朝に拒絶され、義経は奥州藤原氏を頼って、亡命)。
熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれ、その罰が、誓約を破ったその人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたそうです。
江戸時代になると、遊女と客が取り交わす誓紙にまで熊野牛王が使われ、「誓紙書くたび三羽づつ熊野で烏が死んだげな」と小唄に歌われました。「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という粋な都々逸もあります。この都々逸、幕末の志士・高杉晋作の作と伝えられています。
熊野牛王は誓約に用いられた他、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札としても用いられました。『閑窓瑣談』には、こんな霊験譚が載せられているそうです。
亨保のころ、武蔵の国のある村の百姓の家で、2才の女の子が夜な夜な光り物の怪物に襲われ、それを家の奥からまた別の光の玉が現れて撃退し、女の子を守るということがあった。
この怪異に家の中を祓い清めることにしたが、その後、女の子は怪物に奪い取られてしまった。怪物は裏山に棲む狒々(ひひ)だとわかったが、さて、女の子を守ってくれていたものは何だったのかと、探してみると、家の中を掃除したときに捨てた、壁に貼られていた一枚の煤けた紙片だった。それはよくよく見ると、熊野午王のお札であったのだ。
熊野においでの際はぜひ熊野牛王宝印をお土産にどうぞ。
左が新宮(熊野速玉大社)の熊野牛王、右が那智(熊野那智大社)の熊野牛王です。
大峰
吉野と熊野とを結ぶ大峰山脈。大峰の修験道では、大峰山脈を曼荼羅世界として受けとめています。曼荼羅とは仏の悟りの境地を具象化したものであり、修験道では山中の自然の存在ことごとくを大日如来の説法として受けとめるのです。
曼荼羅には金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅の両部曼荼羅があり、大峰山脈も熊野側を金剛界曼荼羅、吉野側を胎蔵曼荼羅として見ていました(この物語によると。吉野側を金剛界曼荼羅、熊野側を胎蔵曼荼羅として見るのが普通のようですが)。
金剛界曼荼羅は宇宙の精神的世界を表現し、完成された智恵を象徴しているようです。胎蔵曼荼羅は宇宙の物質的世界を表現し、絶対の理法を象徴するようです。金剛界は男性原理に、胎蔵は女性原理も例えられます。
綏靖天皇
熊野権現の前世譚のラストに唐突に挿入された感のある第2代天皇・綏靖天皇の話。綏靖天皇の食人伝説は、他に所見がないそうです。
『古事記』や『日本書紀』によると、第2代天皇である綏靖天皇は、神武天皇を父とする3兄弟の末子でした。
神武天皇の没後、長兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は2人の弟を殺そうと謀ります。その企てを事前に知った綏靖天皇は、すぐ上の兄である神八井耳命(かみやいみみのみこと)と共に、先に手研耳命を殺そうとします。
2人で手研耳命の部屋に押し入りますが、神八井耳命は手足がふるえて殺すことができませんでした。そこで、この天皇が兄に代わって手研耳命を殺しました。神八井耳命はこれを恥じ、弟の綏靖天皇に皇位を譲りました。
『古事記』や『日本書紀』には、このこと以外、綏靖天皇に関しては、どこを宮にしただの、誰を皇后にしただの、子は誰だの、御陵はどこだの、そんなことが簡単に記されているだけです。
綏靖天皇を人肉を食らった悪王だと伝える伝説が中世、一般に流布されていたのでしょうか。
(てつ)
2020.2.24 更新
参考文献
- 西尾光一・貴志正造 編 鑑賞日本古典文学第23巻『中世説話集 古今著聞集・発心集・神道集』角川書店
- 町田宗鳳『エロスの国・熊野』法蔵館
- 萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版
- 下村巳六『熊野の伝承と謎』批評社