熊野の本地5 八咫烏の導き
1 熊野十二所権現 2 五衰殿の女御 3 異常出産 4 捨て子 5 八咫烏の導き 6 熊野牛王宝印
『神道集』巻二の六「熊野権現の事」より現代語訳5
そもそも8尺の熊となって、飛鳥野(新宮市阿須賀の辺り。阿須賀神社があります)というところに顕われなさった。そういうことに熊野という地名は由来するのであろう。
牟婁郡の真砂(まなご。西牟婁郡中辺路町。清姫の故郷です)という所に、千代包(ちよかね)という猟師がいた。獣待(ししまち)をしていたときに道が途絶えて、どこへ行くこともできない。そんなときに八咫烏(やたがらす)が出てきた。
猟師は大きな猪に手傷を負わせたが仕留めることができず、どこへ逃げたのかわからなかったが、逃がすに惜しい猪なので、探したが見つけられない。
すると件の八咫烏が先に立って、静々と歩いていった。猟師は怪んで、ついていくと、大平野(おおひらの。未詳)という所で、この烏は色を変えて、金色に見えた。後にある人がこのことについて申したのには、「金の烏は太陽である。外典(仏典以外の書籍)にも『金の烏は天上に遊ぶ』とあるが、それがこの烏である」。
その猟師は烏と一緒に行くと、曾那恵(そなえ。本宮大社旧社地の川向こうに備崎[そなえざき]という所があり、そこに備宿[そなえのしゅく]という修験道の霊場がありました。ですので、その辺りを曾那恵といったのでしょう)という所へ入った。猪はそこに倒れ伏していた。また、烏は何処ともなく姿を消していた。猟師は怪んで、この猪のことを忘れて、不審に思いながら、歩いていくと、烏もいなくなってしまったので、天を仰いで立っていたところ、イチイの大木の上に光る物を見つけた。
この物が自分に危害を加えようとする物だと思ったので、猟師は大きな鏑矢をつかんで、その発光物体に問いかけ、
「我は15歳の時から狩りをして、60になるまで、このような不可思議現象に遭遇したことは度々ある。しかし、いまだ不覚をとったことはない。どういう物にでも変じて見せよ」と言った。
この発光物体は3枚の鏡になって答えて言った。
「我こそは天照大神の五代目の子孫にして、摩訶陀国(まかだこく:マガダ国、ガンジス川中流域にあった古代インドの王国)のしばらくの主、また我が国でも先祖代々伝わってきたものである。王をはじめとして、万人を守る者である。熊野権現として現れるのも我等のことである。過ちをしなさるな。宿縁によって汝に姿を見せるのである」
猟師は、弓矢を投げ捨て、袖を合わせて、
「これだから凡夫の力は情けないものです。神仏と知らず、矢でもって過ちを犯すところでした。恐る恐る罪深いことです」と畏まって、その木のもとに3つの庵を造り、「仰せの通りならば、ここにお移りください」と申し上げたところ、3枚の鏡は3つの庵にお移りになった。
猟師は奉る物がないので、間に合わせに山芋を掘り、鹿肉を切って供御にそなえ、折から五月五日、端午の節句であったので、携行食に持っていた麦を飯にして、それに山芋や菖蒲などを取り添えてお供えし改めて急ぎ山を出て、天皇の宣旨を賜ろうとして都へ上った。
熊野権現もまた、藤代(和歌山県海南市藤代町)から、猟師より先に飛行夜叉(ひぎょうやしゃ)を遣わし、夢のお告げでもって天皇に申し上げた。そこへ千代包が参上して、この由を申し上げたので、天皇は千代包に「早く御宝殿を造り申し上げるように」と仰せ付けられた。
夜を日に継ぎ、三所の御宝殿を件の所に造り、人も多く集まって、在家の数も300軒ばかりになった。その人々はみな熊野権現をもてなし申し上げた。権現の神力によって、人は楽しみ、世は栄えていった。千代包はその宮の別当(熊野三山の管理職)になった。このときの人皇は七代孝霊天皇と申した。
熊野の語源
「熊野」という地名が何を意味していたのか、その語源ははっきりとはわかっていません。様々な説があります。
- 「クマ」は古語で「カミ」を意味し、「神のいます所」の意とする説
- 「クマ」は「こもる」の意で、「樹木が鬱蒼と隠りなす所」の意とする説
- 「クマ」は「こもる」の意で、「神が隠る所」の意とする説
- 「クマ」は「こもる」の意で、「死者の霊魂が隠る所」の意とする説
- 「クマ」は「隅(くま=すみ)」の意で、都から見て「辺境の地」の意とする説
- 「クマ」を「影」の意とする説
- 「クマ」を「曲(くま)」の意とする説
どの説を取るにしろ、熊野には開けた明るいイメージはありません。地形的には山ばかりで凸凹うねうね曲がりくねり、日射しを照り返す照葉樹林が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地というイメージです。
八咫烏
狩りの途中、山中に迷い、困っているところへ八咫烏が現れ、猟師を神のもとへと導く。『古事記』や『日本書紀』の神武東征説話(八咫烏が天から派遣され、初代天皇・神武天皇を先導し、熊野から吉野に導き入れる)に良く似ていますが、八咫烏は熊野の神のお使いとされていますので、もともと熊野地方の狩猟する人々が信じていた守護霊だったのだと思われます。おそらくは熊野のヤタガラス信仰を『古事記』や『日本書紀』が取り入れたのでしょう。
八咫烏の「咫」は長さの単位で、それ1字では「あた」と読み、「八咫(やあた→やた)」では「大きな」という意味になります。八咫烏とは、字義的には大きなカラスということですが、3本の足を持つカラスとして描かれます。日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですね。
また、「やあた」は「あた」の強めで、「あた」は「いまわしい」の意という説もあります。また、「あた」は「あだ」と同じで、「むなしい」「はかない」の意で、死を暗示するとの説も。
熊野の神を発見し、最初にお祀りし、最初の熊野別当になった人物が、猟師であったということは、熊野信仰がもともと熊野地方の狩猟民によって支えられてきたということなのでしょう。
(てつ)
2020.2.24 更新
参考文献
- 西尾光一・貴志正造 編 鑑賞日本古典文学第23巻『中世説話集 古今著聞集・発心集・神道集』角川書店
- 町田宗鳳『エロスの国・熊野』法蔵館
- 萩原法子『熊野の太陽信仰と三本足の烏』戎光祥出版
- 下村巳六『熊野の伝承と謎』批評社