国阿上人の熊野詣
時宗(元々は時衆。鎌倉中期から室町時代にかけて日本全土に熱狂の渦を巻き起こした浄土教系の新仏教)の国阿派の国阿上人についての『国阿上人絵伝』一二に次のようなお話があります(『大日本史料』七一七)。
『国阿上人絵伝』詞書(一部現代語訳)
こうして紀州に至り、名草郡紀三井寺の救世菩薩に巡礼し、藤代御坂をお登りになる。ここに熊野権現の一の鳥居がある。名にしおう松の木陰に御社がある。ここより本宮へ三十三里、5日で本宮へ参れるとか。
道中、六時不断の行法を怠らず、在所在所、念仏勧進してお通りになると、山は高く険しく、道も険しく草木は森々と茂って、山風が谷に広がり、ほんとうに憂き世の外に出たようで、心の塵なく、山谷の水に沐浴して内も外も清浄の身となって、少しやすらいでいらっしゃるとき、聖がお詠みになった歌、
阿弥陀仏と唱ふる声は月なれや 迷ふ心のやみも晴れゆく
(訳)阿弥陀仏と唱える声は月であるのだなあ。迷う心の闇も晴れゆく。
それから鹿が峠、原の谷、塩屋峠などを過ぎて、岩代の王子という社がある。昔、有間皇子が祈願あって、松の枝とを引き結んで、「ま幸(さき)くあらばまた帰り見む」と詠じた古歌が思い出されて、しみじみと心を動かされる。
切目という所は、後ろは山、前は海で、風景類のない所である。八十二代後鳥羽院は二十四度、熊野へお詣でになったので、この地に行宮をお造りにならせていらっしゃったということだ。
南部峠という難所を過ぎて田辺という所まで2里ばかりの平地の道である。塩見峠・鹿が坂・金が坂というのは第一の険難である。
伏拝という所は和泉式部が詣でたときに、ここで「月の障りとなるぞ悲しき」と詠んだところ、権現がお現われになって「塵にまじわる我なれば月のさはりは何か苦しき」との御返歌があって、参詣した所である。
さて、本宮の石田河(いわたがわ:本宮は熊野川・音無川・石田川の3つの川の合流点の中州にあった)で垢離をかいて、社前へお参りになった。
そもそも本宮の本社は証誠殿(しょうじょうでん)で、本地は阿弥陀如来である。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の皇子、早玉男(はやたまのお)を祝い祀った御神である。
我が宗門鎮護の御神なので、御宝前で七日七晩六時不断の行法を行い、恩徳報謝と奉られた。
見聞きする僧侶俗人は日々夜々に群れ集って、供養を奉った。
少しおまどろみになったとき、夢でもなく現でもなく、お告げになるお言葉があった。
「仏法修行というのは身を捨てることにある。秋の葉が風を待って命を頼み、露よりも消えやすい身を長久であろうと思い、我が物顔に身を思うために、五欲(美しいものを見たい、美しい音楽や声を聞きたい、いい香りをした人に接したい、うまい食べ物を食べたい、感触のいいものに触りたい、という5つの欲望)が起こり、二世(現世と来世)の災いとなるのである。あなたはその果敢ない身命を阿弥陀如来に投げ入れたので、きっと今生より仏果で仏に護念され申し上げるだろう」
聖はそのように新しい示顕を受けて、信心を肝に銘じてありがたく思いました。
(現代語訳終了)
時宗と熊野
本宮の本社は証誠殿と呼ばれます。証誠殿とは、念仏者の極楽往生を保証する神様がいらっしゃる社殿ということ。
証誠殿にいらっしゃる熊野本宮の主祭神は、阿弥陀如来の権現(ごんげん。仮の姿で現れたもの。垂迹神)だとされ、そのため、熊野本宮は念仏者の尊崇を受けました。
とくに時宗にとって熊野本宮はとても重要な場所でした。
それは、その場所で、開祖の一遍上人が熊野権現の神勅を受けて、宗教的な覚醒を得たからです。
阿弥陀仏を本地とする熊野本宮の神の神勅を一遍が受けたこのときを、時宗教団では一遍成道(じょうどう。悟りを開くこと)の年とし、開宗の年としています。
また、一遍がそれまでの智真(ちしん)という名を改めて一遍と名乗ったのもこのときからのことで、一遍自身、「わが法門は熊野権現夢想の口伝なり」とまで語っています。
南北朝から室町時代にかけて熊野信仰を盛り上げていったのは、じつはこの時宗でした。
時衆の念仏聖たちは南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、説経『小栗判官』などを通して熊野の聖なるイメージを広く庶民に伝え、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めていったのでした。
有間皇子の古歌
謀反のかどで藤代の坂で殺された悲劇の皇子、有間皇子の詠じた古歌とは、『万葉集』巻第二に収められた2首(141・142)のうちの1首。せっかくですので、2首ともご紹介しておきます。
有間皇子、自ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首
岩代の浜松が枝(え)を引き結び ま幸(さき)くあらばまた帰り見む
(訳)岩代の浜の松の枝を引き結んでいく。幸いに無事であったのならばまた帰りここに立ち寄って見よう。
家なれば笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る
(訳)家であれば器に盛って神に手向ける飯を、今は旅にあるので椎の葉に盛って手向けることだ。
松の枝と枝とを引き結ぶというのは、無事を祈るまじない。椎の葉に盛った飯も神への手向けで道中の無事を祈っています。
(てつ)
2005.8.4 UP
2020.8.7 更新
参考文献
- 『本宮町史 文化財編・古代中世史料編』