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太平記 大塔宮熊野落ちの事 現代語訳2

大塔宮熊野落ちの事 現代語訳2

 現代語訳1  現代語訳2

『太平記』巻第五「大塔宮熊野落事」現代語訳2

 宮(護良親王)をとある路傍の仏堂に置き奉り、御供の人々は田舎家に行って、熊野参詣の山伏達が道に迷ってここに来たのだと言うと、田舎家の者達は気の毒がって、粟の飯や栃の粥などを持ってきて、餓えを助けた。宮にもこれらを召し上がっていただき、2、3日は過ごしました。

しかしながら、これでは結局どうしてよいかわからなかったので、光林房玄尊はとある田舎家の然るべき人の家であろうとおぼしき所に行って、出てきた子供に家主の名を問うと、「ここは、竹原八郎入道殿の甥で、戸野兵衛殿と申す人の家でございます」と言った。

それではここの主こそ弓矢を取っては並びなき人だと聞き及んでいる者であったのか。どうにかして協力を頼みたいものと思い、門の内に入って様子を見聞きしていると、家の内に病人がいると思われて、「ああ、霊験の貴い山伏でも出て来てくれたらなあ、そうしたら祈祷させましょう」と言う声がした。

玄尊は、それ、都合のよいことがあることだと思い、声を高らかに上げて、「私共は三重の滝(那智の一の滝、二の滝、三の滝)に7日間打たれ、那智山に千日籠り、三十三所の巡礼のために出て来た山伏ですが、道に迷ってこの里に出て来ました。一夜の宿を貸し、一日の餓えをお助けください」と言ったところ、家の内から田舎びた下女が1人出てきて、「これこそしかるべき仏神のお計らいと思われます。ご加護に違いないでしょう。ここの主の女房が物の怪のために御病気になっています。ご祈祷してくださいませ」と申した。

玄尊は「我らは平の山伏ですから祈祷しても効果がないでしょう。しかし、あそこに見えている路傍の仏堂で足を休められております先達こそ、効験第一の人でございます。このことを申し上げれば、わけなく祈祷してくださいましょう」と言ったところ、女は大いに喜んで、「でしたら、その先達の御坊をここに御案内くださいませ」と言って、この上なく喜びあっていた。

玄尊は走り帰って事情を申し上げて、宮を始めとして、御供の人がみなその屋敷へお入りになった。宮は病者が伏している部屋にお入りになって、加持をなされた。千手陀羅尼経を2、3回高らかに唱えられ、数珠を押し揉みになられたところ、病者は自ら心にもないことを上の空に様々なことを言った。まことに不動明王の縛に掛けられた様子で、足や手を縮めてわななき、全身に汗を流して、物怪はすぐに立ち去ったので、病者はたちまちに平癒した。

主である夫は非常に喜んで、「私は貯えている物もありませんので、特別な贈り物はできません。せめて十余日、ここに御逗留されて、お足をお休めになってください。さっきの山伏が行き届かぬ待遇に耐えかねてお逃げになるとも限りませんから、恐れながらこれを質としていただきます」と言って、各々の笈などを寄せ集めてみな屋敷の内に置いた。御供の人々は顔はその気持ちを表さないが、内心みな大いに喜んだ。

このようにして十日余りをお過ごしになられたが、ある夜、主の兵衛尉が客殿に来て、炉で木を燃やすなどさせて世間の様々な話をしたついでに、

「みなさんはきっと聞き及んでいらっしゃることだと思いますが、本当であろうか、大塔宮が京都をお落ちになられて、熊野の方へ向かわれたそうです。熊野三山の別当定遍僧都は無二の武家方ですので、熊野辺にお隠れになることは、非常に難しいと思えます。ああ、この里にお入りになられたらよいのに。ここは土地こそ狭いですが、四方はみな険しい山で、10里、20里の中へは、鳥さえも飛ぶのが難しい所です。その上、人の心は偽らず、弓矢を取ることも非常に優れている。だから、平家の嫡孫、平維盛と申した人も、我らの先祖を頼ってここに隠れ、やがて源氏の世にも無事でいらっしゃったと承っております」と語られた。

宮は、本当に嬉しげに思われている御顔が顕われて、「もし大塔宮などがここを頼ってお入りになられたら、頼りにおなりになるおつもりか」とお問いになられると、戸野兵衛は、「申すまでもありません。 私自身はそんなにたいした人間ではありませんが、私がこう言う事情だと話せば、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津川や吉野十八郷の者まで宮をお守し、何者にも手出しはさせません」と、話したのです。

その時、宮は木寺相模と咄嗟に目を合わせると、相模は兵衛のそばに来て、「今となっては隠すこともないでしょう。あの先達の僧侶こそ、大塔宮護良親王様でございます」と話せば、兵衛はすぐには信じられなく、皆の顔をつくづくと眺めまわしていました。

その時、片岡八郎、矢田彦七の二人が、「あぁ、暑いなあ」と、頭巾を脱いで傍らに置きました。本当の山伏ではないので、月代の痕もくっきりと残っています。兵衛はこれを見て、「なるほど、貴殿たちは山伏ではないようです。どうも畏れ多いことを話したようです。知らぬこととは言え、先程までの無礼な振る舞い、礼儀をわきまえぬ奴だと思われたことでしょう」と、大いに驚くと首を地に付け、手を揃えて畳を降り、うずくまりました。そして急遽、丸木造りの御所を建てて、宮の身辺を警備しました。

また四方の山々には関所を設け、道路を塞いで通行を制限し、用心に用心を重ねました。これでもまだまだ不十分だと考え、叔父の竹原八郎入道に事情を話したところ、入道はすぐ戸野の話に従って、自分の屋敷に大塔宮を迎え入れ、二心無き忠誠をお誓いしましたので、宮も安心され、ここに半年ばかり逗留されました。

また人に何か感づかれないように、還俗されたかのような容姿になられ、また竹原入道の娘を夜の寝室に招きいれ、寵愛されたことも当然のようです。そうなると屋敷の主人、竹原入道もますます忠誠心を強め、近隣の村人たちも次第に宮に従属を誓い、すっかり幕府を軽んずることになりました。

 

 

 「大塔宮熊野落事」はまだ続きますが、今回はここまで。

(てつ)

2012.8.3 UP
2019.12.26 更新

参考文献