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熊野懐紙3:正治2年(推定) 藤代王子和歌会「山路眺望、暮里神楽」

熊野懐紙

 24年の在院期間のうちに28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇(1180~1239)。その熊野御幸の特色として、道中、宿所となる王子社などで神仏を楽しませるために和歌の会が度々催されたことが挙げられます。

 その和歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した自詠自筆の和歌懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。現存する熊野懐紙とその歌の数は35枚、70首。和歌会の催された年月日、場所、歌題によって7つに分類することができます。

  1. 正治2年(1200)12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」…11枚22首
  2. 正治2年(1200)12月6日 滝尻王子 「山河水鳥、旅宿埋火」…11枚22首
  3. 年月日未詳(正治2年と推定) 藤代王子 「山路眺望、暮里神楽」…3枚6首
  4. 年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「古谿冬朝、寒夜待春」…2枚4首
  5. 年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「行路氷、暮炭竈」…4枚8首
  6. 建仁元年(1201)10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」…3枚6首
  7. 建仁元年(1201)10月14日 近露王子 「峯月照松、浜月似雪」…1枚2首

首年月日未詳(正治2年と推定)藤代王子「山路眺望、暮里神楽」3枚6首

 ここでは3の<正治2年(推定) 滝尻王子 「山路眺望、暮里神楽」>をご紹介します。

 まずは藤代王子ついて少し。
 藤代王子は熊野三山の聖域の入り口とされ、熊野九十九王子のなかでもとくに格式が高い「五体王子」のひとつとして崇敬されてきました。

 それでは上皇以下3枚の懐紙に書かれた歌を口語訳と合わせてご紹介します。
 ただし、口語訳は語注も何もない状態から私が古語辞典だけを手がかりに訳しましたので、かなり怪しい箇所もあり、わからない箇所も多々あります。何かお気づきの点などございましたら、ご教示ください。
 なお濁点は私の判断で付けています。やはりおかしい箇所がございましたら、ご教示ください。

1.後鳥羽上皇(1180~1239)の歌2首

   詠二首和謌

   山路眺望

ふぢしろや山ぢはるかにみわたせば ふもとにつづくわかのうらなみ

(訳)藤代の山路を遥かに見渡すと、麓に和歌の浦の波が続いていることだ。

   暮里神楽

たちまはるきねがたもとのゆふかぜや うちなびく神のしるしなるらん

(訳)立ち回る巫女のたもとが夕風にうちなびいている。神の印であるのだろう。
 「きね」は巫女のこと。

2.源通親(みちちか:1149~1202)の歌2首

   詠山路眺望和謌/右近衛大将(源)通親

ふぢしろのみさかのそこをながむれば なみのはなちるふきあげのはま

(訳)藤代の坂の底を眺めると、波の白い花が散る吹上の浜であることだ。
 万葉集に「藤代のみ坂を越ゆと白妙のわが衣手はぬれにけるかも」がある。

   暮里神楽

たまがきにきみがみゆきのいろそへて ゆうかけてしも神のよりいた

(訳)玉垣に君の御幸にいろそえて(?)、神の寄り憑く巫女が幣を奉っている。
 玉垣は神社の周囲にめぐらした垣根。木綿(ゆう)は楮(こうぞ)の皮で作った糸。幣(ぬさ)として榊(さかき)などに垂らした。寄板(よりいた)とは巫女のこと。

3.藤原雅経(まさつね:1170~1221)の歌2首

   詠山路眺望和哥/侍従藤原雅経

ながめゆくふぢしろやまのみねつづき あらしのおともわかのうらまつ

(訳)眺めゆく藤代山の峰続き。強い風も???

   暮里神楽

いくたびの神もあかすや しめのうちにそでふるきねがゆふかくるこゑ

(訳)幾度の神も明かすのか(?)。注連縄の内で巫女が袖を振り、幣を奉る音。

(てつ)

2004.11.14 UP
2020.8.10 更新

参考文献