熊野懐紙
24年の在院期間のうちに28回もの熊野御幸を行った後鳥羽上皇(1180~1239)。
その熊野御幸の特色として、道中、宿所となる王子社などで和歌の会が度々催されたことが挙げられます。
これまでの熊野御幸では道中の王子社などでは、神仏を楽しませる法楽として、白拍子・馴子舞・里神楽・相撲など、様々な芸能が演じられましたが、和歌に熱心だった後鳥羽上皇は神仏を楽しませるために和歌の会を催しました。
その和歌会に参加した人々が自分の詠んだ歌を書いて差し出した自詠自筆の和歌懐紙を熊野懐紙(くまのかいし)といいます。
熊野懐紙1枚は、縦30~35cm・横50~60cmほどの大きさで、署名がされ、1枚につき2題の歌が1首ずつ書かれています。
各歌会での懐紙は、上皇自詠自筆の懐紙を筆頭につなぎ合わせて一巻とし、裏面に上皇が歌会の催された場所と年月日を記した付札を付しましたが、現存する熊野懐紙は、多くが一枚ずつ外されて掛軸に仕立てあげられて、個人や美術館などがバラバラに所蔵しています。
熊野懐紙は、当時の歌人には宝物と珍重され、都で高値で売買されて、後鳥羽院政の収入源にもなったといわれています。
現在のところ、現存する熊野懐紙とその歌の数は35枚、70首。鎌倉初期の、筆者と書かれた日時場所を断定できる仮名筆跡としてとても貴重なもので、そのほとんどが国宝か重要文化財に指定されています。
現存する熊野懐紙は、和歌会の催された年月日、場所、歌題によって7つに分類することができます。
- 正治2年(1200)12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」…11枚22首
- 正治2年(1200)12月6日 滝尻王子 「山河水鳥、旅宿埋火」…11枚22首
- 年月日未詳(正治2年と推定) 藤代王子 「山路眺望、暮里神楽」…3枚6首
- 年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「古谿冬朝、寒夜待春」…2枚4首
- 年月日未詳(正治2年と推定) 場所未詳 「行路氷、暮炭竈」…4枚8首
- 建仁元年(1201)10月9日 藤代王子 「深山紅葉、海辺冬月」…3枚6首
- 建仁元年(1201)10月14日 近露王子 「峯月照松、浜月似雪」…1枚2首
正治2年12月3日切目王子「遠山落葉、海辺晩望」11枚22首
切目神社(切目王子跡) 和歌山県日高郡印南町
ここでは1の<正治2年12月3日 切目王子 「遠山落葉、海辺晩望」>をご紹介します。
この熊野懐紙は、上皇と10人の廷臣の11枚の懐紙がつなぎ合わされて一巻となっている非常に貴重な熊野懐紙で、「切目王子和歌会 正治二年十二月三日」との付札が付されています。西本願寺が所蔵する国宝です。
まずは切目王子について。
切目王子は和歌山県日高郡印南(いなみ)町にある熊野九十九王子のひとつ。
現存する文献上では最古の熊野縁起である『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」によると、飛来神である熊野の神さまが熊野に来る以前に切目の地に一時滞在したとされ、切目王子は熊野九十九王子のなかでも特に格式が高い五体王子のひとつとして崇敬されてきました。
それでは上皇以下11枚の懐紙に書かれた歌を口語訳と合わせてご紹介します。
ただし、口語訳は語注も何もない状態から私が古語辞典だけを手がかりに訳しますので、かなり怪しい箇所もあると思います。明らかにおかしい箇所などございましたら、ご教示ください。
なお濁点は私の判断で付けています。やはりおかしい箇所がございましたら、ご教示ください。
1.後鳥羽上皇(1180~1239)の歌2首
詠二首和謌
遠山落葉
あきのいろはたにのこほりにとどめをきて こずゑむなしきをちのやまもと
(訳)秋の紅葉の色は谷の氷にとどめ置いて、梢がすっかり葉を落とした遠くの山の麓。
海辺晩望
うら風になみのをくまて雲きえて けふみか月のかげぞさびしき
(訳)浦風に波の彼方まで雲が消えて、今日は三日月の光が寂しいことだ。
2.源通親(みちちか:1149~1202)の歌2首
詠遠山落葉倭歌/右近衛大将通親
きりめやまおちのもみぢはちりはてゝ なをいろのこすあけのたまがき
(訳)切目山の遠くの紅葉は散りはてたが、いまだ色を残す朱塗りの玉垣。
玉垣は神社の周囲にめぐらした垣根。
海辺晩望
あかねさすしをぢはるかにながむれば いりひをあらふなみのいろかな
(訳)茜色の夕日が射す潮路を遥かに眺めると、夕日を洗っているような波の色であることよ。
3.藤原公経(きんつね:1171~1244)の歌2首
詠二首和哥/参議左近衛中将藤原公経
遠山落葉
たつた山ふかきこずゑのいろをだに あらしに見することのはぞなき
(訳)竜田山の深い梢の色をさえ強い風に見せる言葉はない(?)。
海辺晩望
ながめやる心のすゑはくれにけり うらよりおちにうらづたひして
(訳)眺めやる心の末は暮れてしまった(?)。浦から遠くへ浦伝いに行って。
4.藤原範光(のりみつ:1155~1213)の歌2首
詠二首和謌/春宮亮藤原範光
遠山落葉
みわたせばきぎのこのはもちりはてゝあきつのやまはなのみなりけり
(訳)見渡すと、木々の木の葉はすっかり散ってしまった。秋津の山というがそれは名ばかりであるのだなあ。
海辺晩望
いはしろのまつのこまよりみわたせば ゆふ日のいろをあらふしらなみ
(訳)岩代の松の木々の間から見渡すと、夕日の色を洗っているような白波であることだ。
岩代は和歌山県日高郡南部町。岩代王子がある。
岩代の松は有間皇子の結び松で知られる。松の小枝を結び、そこに自らの魂を結び込めることで、無事を祈るまじないがあった。
5.藤原家隆(いえたか:1158~1237)の歌2首
冬日於切目王子詠二首和歌/上五位下上総介藤原朝臣家隆上
遠山落葉
ふるさとはまたしぐるらし まさきちるみやまのあられいろかはるなり
(訳)古里はまた時雨れているらしい。正木の葛の葉が散る深山の霰の色が変わった。
正木の葛(まさきのかずら)はカズラの一種。
海辺晩望
いさりびのひかりにかはるけぶりかな なたのしほやのゆふぐれのそら
(訳)漁り火の光に変わる煙であることだ。名田の塩屋の夕暮れの空。
名田は和歌山県御坊市名田町。上野王子がある。
塩屋は海水を煮て塩を作る小屋のことだが、地名としての塩屋(御坊市塩屋町。塩屋王子がある)のことも掛けているのだろう。
6.藤原雅経(まさつね:1170~1221)の歌2首
詠遠山落葉和哥/侍従藤原雅経
こがらしのおとはかよはぬながめにも うつればしるしみねのもみぢば
(訳)木枯らしの音も届かない遠くの眺めであるが、峰の紅葉が散ると木枯らしが吹いていることがはっきりとわかる。
海辺晩望
ながめやるこゝろのはてもはれにけり なみのいくへのゆふなぎのそら
(訳)眺めやる心の果て(?)も晴れている。波のいくへの(?)夕凪の空。
7.源具親(ともちか:生没年未詳)の歌2首
詠二首和歌/能登守源具親上
遠山落葉
みねとをきあらしもいろにあらはれて しぐれしあとはまつのひとむら
(訳)遠い峰にも強い風が来ている様子がわかる。時雨れたあとはまつのひとむら(?)。
海辺晩望
ながめよとおもはでしもやかへるらん 月まつなみのあまのつりふね
(訳)眺めてくれと思っているわけでもなくて帰ってくるのだろうか。月の出を待っている波の上の海人の釣舟は。
8.寂蓮(1143?~1202)の歌2首
詠二首和歌/沙弥寂蓮上
遠山路葉
よそにみしふもとのいろとなりにけり かさなる山のみねのもみぢば
(訳)よそで見た麓の色となってしまった。重なる山の峰の紅葉の葉。
海辺晩望
ながめやるおきのこじまにくもきえて なみにちかづくみか月のかげ
(訳)眺めてやっている沖の小島から雲が消えて、波に近づく三日月の光。
9.藤原隆実(たかざね:1177~1265)の歌2首
詠二首和歌/散位藤原隆実上
遠山落葉
やまこゆるあらしもぬさやたむくらむ もみぢちりくるたまがきのには
(訳)山を越えてやってくる強い風も幣を手向けるのだろうか。紅葉が散り落ちる玉垣の庭。
海辺晩望
わたのはらなみぢはるかに みか月のかたぶくかたや あはのしま山
(訳)海原の波路遥か、三日月の傾く方向に、あわのしま山(?)が見える。
10.源家長(1170?~1234?)の歌2首
詠二首和歌/散位源家長
遠山落葉
もみぢちるやまのはちかきやどならば ちりくるいろはにはにみてまし
(訳)紅葉散る山の端に近い宿であるならば、散ってくる色づいた葉を庭で見てみたいものだ。
海辺晩望
ながめやるおきのこじまのゆふけぶり いかなるあまのすまゐなるらむ
(訳)眺めやっている沖の小島の夕方の煙。どのような海人の住まいであろうか。
11.源季景(すえかげ:生没年未詳)の歌2首
詠二首和哥/右衛門少尉源季景上
遠山落葉
なをかよふこゝろもさびしかをちやまあらしのゝちはこずゑのみかは
(訳)なを通う(?)心も寂しいかをちやま(?)。強い風が吹いた後は梢だけか(?)。
海辺晩望
なにかなきながめのほどにそらくれて おとのみよするよさのうらなみ
(訳)何となく眺めているうちに空が暮れて、音だけが寄せるよさ(?)の浦の波。
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以上、11枚22首、正治2年12月3日、切目王子にて催された歌会の熊野懐紙の歌のご紹介を終わります。口語訳できなかった箇所や怪しい箇所がありますので、お気付きの点などありましたら、ぜひご教示ください。
(てつ)
2004.10.2 UP
2020.7.23 更新
参考文献
- 大阪市立美術館編集『「紀伊山地の霊場と参詣道」世界遺産登録記念 特別展「祈りの道~吉野・熊野・高野の名宝~」』毎日新聞社・NHK
- 本宮町史編さん委員会『本宮町史 通史編』本宮町