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南方熊楠「三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる」

三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる

そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を掃討滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併(らんぺい)、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる。

神社合祀に関する意見(原稿)『南方熊楠全集』7巻

 伊勢と熊野がある三重県・和歌山県の2県で正当な理由もない神社合祀がもっともひどく行なわれたのは珍事だと南方熊楠は憤りました。

 しかしながら明治政府にとっては逆に伊勢と熊野があるからこそ三重県・和歌山県の2県では神社合祀を厳しく行わなければならなかったのでしょう。

明治末から大正初めにかけて推進された神社合祀政策において全国では約20万社あった神社が13万社ほどに減らされました。全国的にはおよそ35パーセントの神社が潰されたのに対して、三重県と和歌山県では特に激しい神社合祀が行われました。

 三重県では1万400社以上あった神社が1040社ほどまで減らされ、和歌山県では5800社以上あった神社が440社ほどまでに減らされました。三重県ではおよそ90パーセント、和歌山県ではおよそ92パーセントの神社が潰されました。

 なぜ三重県・和歌山県の2県では神社合祀を厳しく行わなければならなかったのでしょうか。他にも理由はあるかもしれませんが、主要なひとつの理由は新たな神道の布教のためではないかと推測します。

 新たな神道の布教のためには古い神道は邪魔になります。伊勢と熊野は古くから日本人の信仰を集めてきた日本の二大聖地であり、日本人の精神にとって重要な場所でした。どこよりもまず二大聖地のある二県で、古い神道の徹底的な破壊と新たな神道の布教を進める必要があったのでしょう。

 当時、世界は欧米の列強諸国により分割され、植民地として支配されていました。世界の富は欧米の列強諸国により収奪されていました。欧米列強の脅威に日本が対抗するには、国を豊かにし、軍備を増強し、そして海外に植民地を持つ必要がありました。

 欧米列強がなぜ世界を植民地化できたのか、その精神的なバックボーンはキリスト教でした。欧米諸国はキリスト教の布教を使命として世界を植民地化していきました。植民地の獲得と支配、植民地における資源の掠奪や労働力の収奪を、キリスト教の神の名のもとに正当化し、列強諸国は繁栄しました。

 列強諸国に倣って日本が植民地獲得に乗り出すためには、植民地支配を正当化するキリスト教のような精神的なバックボーンが必要でした。それはもちろんキリスト教ではなく、あるいは中国・朝鮮を経て伝来した仏教でもなく、日本独自のものでなければならないと考えられました。そこで、明治政府は神道に改変を施して新たな神道を作り、その新たな神道をもって植民地支配を正当化しようとしました。

 新たな神道はキリスト教をモデルにして作られました。イエス・キリストの代わりに天皇を、聖書の代わりに『古事記』『日本書紀』を持ち出しました。教会の代わりが神社で、宣教師の代わりには神職を当てはめ、神職が国民に説教して新たな神道を普及させるという体制を作り上げようとしました。神社の格付けもまたカトリック教会における教皇を頂点とした聖職者のピラミッド型の階級制度を真似たものです。

 新たな神道はそれ以前の神道とはまるで異なるものです。

 明治初期にすでに熊野は神仏分離や修験道禁止により破壊され、伊勢にしても庶民が旅の楽しみに訪れた江戸時代の「お伊勢さん」とは様変わりして天皇・皇室のための神社に変容させられました。二大聖地の伊勢と熊野のある三重県と和歌山県だからこそより強く国家の支配下に神社を置かなければなりませんでした。政府は両県の知事に徹底的な合祀を行って古い神道を消し去るよう意向を伝えたのではないかと私は想像します。

 明治政府にとって古い神道のなかでもとりわけ消し去らなければならないのが熊野信仰であったに違いありません。

 明治政府は天皇を国家の頂点とし、天皇の祖先である天照大神を祀る伊勢神宮を頂点としたピラミッド型の中央集権的な神社制度を作り上げました。しかしながら、頂点とした伊勢神宮には、明治2年(1869年)に明治天皇がお参りされるまで、天皇は誰1人として、ただの1度さえもお参りしていません。

 それに対して熊野は天皇が100度ほどお参りされた霊場です。天皇在位中の熊野詣は不可能でしたが、譲位後に、白河上皇が9度、鳥羽上皇が21度、後白河上皇が34度、後鳥羽上皇が28度など、9人の天皇が98度の熊野詣を行われました。

 明治政府が国家の頂点とする天皇が熱烈に尊崇したのが熊野の神様たちであり、しかしながら、その神様たちは記紀に登場せず、インドあるいは中国から飛来したとされる外来の神様で、また仏と一体であり、神様の本体は仏様だとされました。熊野信仰を盛り立てたのは神職ではなく、修験者であり、浄土教系の鎌倉新仏教である時衆の僧でした。

 明治政府が日本からもっとも消し去りたい古い神道が熊野信仰だったのでしょう。 外来の宗教である仏教や修験道の影響を色濃く受けた神社でありながら、熊野は皇室から篤い御崇敬を受けました。神仏分離を行い、外来の宗教を取り除き、修験道を禁止し、新たな神道を作ろうとした明治政府にとって熊野信仰はじつに都合が悪いものでした。

(てつ)

2025.6.15 UP

参考文献