最古の熊野縁起
長寛(ちょうかん)元年(1163)から二年にかけて公家や学者が朝廷に提出した熊野の神についての書類をまとめて『長寛勘文』と呼びますが、その『長寛勘文』に記載された「熊野権現垂迹縁起」は、現存する文献の上では熊野縁起最古のものです。
熊野権現垂迹縁起(現代語訳)
昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (おうししん。王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山 ひこさん)に天降りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。それから5年が経った。
戊午の年、伊予国(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山 いしづちさん)にお渡りになった。それから6年が経った。甲子の年、淡路国(今の兵庫県の淡路島)の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山(ゆずるはさん)にお渡りになった。それから6年が過ぎた。
庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。それから57年が過ぎた。
庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになった。それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。2宇の社であった。それから13年が過ぎた。
壬午の年、本宮大湯原(大斎原 おおゆのはら)の一位木(イチイ)の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。8年が経った。
庚寅の年、石多河(石田川 いわたがわ)の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。跡を追い尋ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。
月が犬飼に答えておっしゃった。「我は熊野三所権現である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2枚の月は両所権現(りょうしょごんげん)と申す」とおっしゃった。云々。
(現代語訳終了)
修験の霊山を経て熊野に
熊野権現は中国天台山から飛来し、英彦山、石槌山、諭鶴羽山という修験の霊山を経て東に進み、熊野に垂迹したとされますが、実際のところは、熊野から西へ西へと、九州の英彦山まで熊野修験の勢力が広まっていったということなのでしょう。
英彦山は福岡と大分の県境にそびえる北九州の最高峰(1200m)で、大峰山・羽黒山と並ぶ日本三大修験道場の霊山です。
後白河院が養和元年(1181)に新熊野社(いまくまのしゃ。後白河院自らが京都東山に勧請した熊野神社)に寄進した荘園のひとつに彦山があり、また、『彦山流記』によると、彦山にある49の霊地・行場である「彦山四十九窟」の第八に熊野十二所権現と若王子を祀る今熊野窟が挙げられています。
『神道集』所収の「熊野権現の事」でも、インドから飛来した熊野権現が降臨した5ケ所のうちのひとつされています。
石槌山は四国の最高峰(1982m)で、西日本でも最高峰。修験の霊山として知られました。
諭鶴羽山は淡路島最高峰(608m)。やはり修験の霊山で、古くから熊野十二所権現が祀られており、創建の由緒譚も「熊野権現垂迹縁起」によく似ています。
狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放つ。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んでかくれた。狩人、その跡を追って頂上に至ると榧の大樹があり、その梢にかたじけなくも日光月光と示現し給い「われはいざなぎ、いざなみである。国家安全、五穀成就を守るため、この山に留るなり、これよりは諭鶴羽権現と号す」と唱え給うた。
熊野権現は各地の修験の霊山に立ち寄ったあと、紀州に入り、切部、神倉、石淵谷を経て、本宮大斎原に3枚の月の姿で降臨したとされます。
3体の月
熊野には、旧暦11月23日に昇る月が3体となって見えるという三体月の伝承があり、現在でも毎年、中辺路町と本宮町では、旧暦の11月23日に「月待ち」の行事が行われています。
熊野の「三体月」伝承は、やはり実際に月が3体に見えたことがあったために生じたのでしょう。
どうして3体に見えるのかについては、急な冷え込みによって大気が乱れ、そのために光が屈折し、3体に見えるのだという説があり、また、「幻月(げんげつ)」なのではという説もあります。
「幻月」とは、空気中の氷の結晶による光の屈折で起こる大気現象で、月の両脇に幻の月のような光が現われる非常に珍しい現象です。太陽にも見られる現象で、太陽の場合は幻日(げんじつ)と呼ばれます。
特定の月齢の夜、地域の人々が寄り合って、月の出を待って月を拝む行事のことを「月待ち」といいますが、何月に行われるかは地域地域によって様々で、待つ月の月齢も様々です。
地域によって十五夜、十七夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの月を待ちましたが、もっとも一般的だったのが二十三夜の月でした。
旧暦23日の月は「二十三夜月(にじゅうさんやづき)」と呼ばれ、深夜12時ころに顔を出すため、「真夜中の月」ともいわれます。真夜中まで月待ちして月を拝むことで願いごとを叶えることができるとされたためか、「二十三夜待ち」が最も一般的な月待ちです。
熊野権現が切部や神倉に降臨したのは、ともに旧暦3月23日。やはり23日です。「二十三夜待ち」に何か関係があるのかも知れません。
3枚の鏡
『長寛勘文』の「熊野権現垂迹縁起」では、三体の月の姿で現われた熊野権現ですが、南北朝時代に成立したと考えられる『神道集』に収められた熊野権現縁起譚「熊野権現の事」では三枚の鏡の姿で現われます。
猟師が最初の熊野権現の発見者
最初の熊野権現の発見者が猟師であるというのは、熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民であったということを示しています。
熊野は山ばかりで平野がなく山からいきなり海になる地形のため、農耕には適さず、熊野山中に暮らす人々は江戸時代中期頃までは、木の実や山菜を採り、魚や獣を捕らえて食べる狩猟採集生活を営んでいたようです。
そのため、熊野信仰のもともとの担い手が狩猟民であったということはまったく当然のことなのですが、神社というと農耕と結びつくものというような先入観のようなものがなんとなく私にはあったため、ちょっと新鮮に感じました。
狩猟というものは、決して効率のよい作業ではありません。
動物は人間より鋭い感覚を持ち、人間より速い足を持ち、人間より強い力を持ち、人間の視界を遮る森のなかに潜んでいます。猟師は狩猟のほとんどの時間を見えない獣を追いかけることに費やします。そう簡単には捕らえさせてはくれません。
多くの狩猟民は、動物たちを森の神さまのものだと考えています。
人間よりもはるかに高い能力を持つ動物をそれでも人間がときに捕らえることができるのは、森の神さまは人間に対しても優しいので、ときに森の神さまが人間に動物を食料として与えてあげようと考えてくれるからなのだ。
そう狩猟民は考えます。
かつての熊野の狩猟民もそのような考え方をしていたかどうかはわかりませんが、狩猟民により祀られた神ということから考えると、熊野本宮大斎原に祀られた神さまは森の神さまなのかもしれません。
熊野本宮の主祭神・家都御子大神(ケツミミコノオオカミ)は、古語で「食(衣食住の『食』)」のことを「ケ」ということから、「ケ=食」を司る神ではないかという説が一般的なようです。人間に自然の恵み、食べ物をもたらしてくれる神様。それはすなわち山間部の狩猟民にとっては森の神様ということになるのでしょう。
(てつ)
2004.2.3 UP
2019.10.5 更新
参考文献
- 加藤隆久 編『熊野三山信仰事典』神仏信仰事典シリーズ(5) 戎光祥出版
- くまの文庫2『熊野中辺路 伝説(上)』熊野中辺路刊行会
- 中沢新一『純粋な自然の贈与』せりか書房