崇徳天皇
現代語訳
天治元年 甲辰 (きのえたつ) 1124年
正月4日、熊野修営、釿始め。
天治2年 乙巳(きのとみ) 1125年
熊野造国美作本宮3月、新宮は5月、那智は7月に各々遷宮し、神祇伯日次文を賜う。
大治元年 丙午(ひのえうま) 1126年
三山に御幸。
大治3年 戊申(つちのえさる) 1128年
11月に両皇(※白河院・鳥羽院)が熊野に御幸。妙心寺を御建立した。
※この年、白河上皇が最後の9回目の熊野御幸。鳥羽上皇は3回目の熊野御幸。鳥羽上皇の熊野御幸の最初の3回は白河上皇の御幸に同道したもので、后の待賢門院も一緒。鳥羽上皇は33年の在院期間中に21回もの熊野御幸を行った。治天の君としての熊野御幸はそれ以降の18回。27歳の1130年から50歳の1153年の間に18回。
大治4年 己酉(つちのととり) 1129年
7月7日、白河院77歳に。天治元年聖護院任大僧正に牛車での参内の勅許が与えられた。大峯入り熊野詣はこれを始まりとする
三山の大検校に任じられた大僧正・行尊がこれである。落書ゆえにここに記す。
大治5年 庚戌(かのえいぬ) 1130年
熊野鶴原尼公がはじめて東仙寺を建てた。薬師堂順雅守慶ス法金剛院。
天承元年 辛亥(かのといぬ) 1131年
長承2年 癸丑(みずのとうし) 1133年
3月、熊野に御幸。新宮に神馬を献上、覚□供え奉った。産田に御幸し、天狗坊を見られた。
長承3年 甲寅(きのえとら) 1134年
京で洪水、洛中は焼け、飢饉であった。9月に熊野に勅使が入った。
保延元年 乙卯(きのとう) 1135年
正月に熊野三山、串本、潮崎に御幸。12月5日三ノ日並出。
保延2年 丙辰(ひのえたつ) 1136年
3月に熊野三山に御幸。御願護摩□号長日堂。
保延5年 己未(つちのとひつじ) 1139年
7月に熊野三山に御幸し、八庄司らに会われた。
※熊野八庄司は熊野の8つの荘園の現地管理者。
原文
天治 甲辰
正月四日熊野修営釿始
二 乙巳
熊野造国美作本宮三月新宮ハ五月那智ハ七月各遷宮賜神祇伯日次文
大治元
三山御幸
三 戊申
十一月両皇クマノ御幸妙心寺御建立
四 己酉
七月七日白河院宝算七十七歳天治元年聖護院任大僧正牛車ヲ勅許大峯入熊野詣始トス
三山任大検校大僧正行尊是也 落書ユへ爰ニ記ス
五 庚戌
熊野鶴原尼公始テ東仙寺ヲ建薬師堂順雅守慶ス法金剛院
天承 辛亥
クマノ三山御幸濱宮高厳上人渡海
二 癸丑
三月クマノ御幸上新宮神馬覚□供奉産田幸天狗坊見ユ
※天承二年ではなく長承三年。
三 甲寅
京洪水洛中焼凶飢饉也九月クマノ勅使入
保延 乙卯
正月クマノ三山串本潮崎幸十二月五日三ノ日並出
二 丙辰
三月クマノ三山御幸御願護广□号長日堂
五 癸未
七月クマノ三山御幸八庄司等見ユ
※癸未は己未の間違い。
(てつ)
2023.4.7 UP
参考文献
- 熊野速玉大社宮司 上野元監修・発行『速玉本 熊野年鑑』熊野速玉大社