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安倍晴明伝説 in 熊野

熊野に伝わる安倍晴明伝説

 安倍晴明(921~1005)。平安時代、花山・一條天皇の頃に実在した陰陽師。
 天文を読み、思うがままに式神(しきがみ:陰陽師が使役する精霊)を操る、おそらく日本史上最高の魔術師です。 その活躍の物語は『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』などに見られます。

安倍晴明の蛭伏せ石(和歌山県田辺市本宮町皆地)

安倍晴明蛭伏せ石 安倍晴明蛭伏せ石

 皆地のお百姓がヒルに血を吸われて困っていた。そこへ山伏が来て、護摩を焚き池のほとりの大石にヒルを伏せこんで祈祷した。それから後は皆地のヒルは人間の血を吸わなくなった。この山伏、じつは安倍晴明(あべのせいめい)であった。晴明はこの石を大事にするように言い残して去っていった。この石を蛭伏せ石(ひるぶせいし)という。

 安倍晴明の蛭伏せの石は、四村神社の裏手の山のふもとにある大池という池の傍にある民家の敷地にあります。ご覧になられるときには住民の方々のご迷惑にならないようにお願いいたします。

安倍晴明の占いにより伐っても伐れなかった木を伐り倒す(和歌山県田辺市本宮町皆地)

 本宮町皆地にあるもうひとつの安倍晴明伝説。

 地内の大池のそばに大きく枝を広げた大楠があり、その枝先は鏡神社(現四村神社)の裏手の山のふもとにまで届いていた。あるとき、村人がこの大楠を伐り倒そうと斧を入れたが、何度斧を入れても翌朝には伐り口は塞がり、元通りに戻っている。
 たまたま当地を訪れた陰陽博士の安倍晴明、この伐っても伐れない木の話を村人から聞き、占ってみたところ、満月の夜に大楠の枝をつたって鏡神社を訪れる大池の主の仕業だとわかった。伐り倒すには昼夜休まず斧を入れつづけ、その伐り屑をすべて焼きつくすようにとのこと。
 村人はその言葉通りに七日七夜伐りつづけ、ようやくのこと伐り倒すことができたという。

安倍晴明のとめ石(和歌山県田辺市中辺路町野中)

安倍晴明のとめ石

 熊野古道「中辺路」継桜王子中ノ河王子の間にある民家の庭先には「安倍晴明のとめ石」なる石があります(「安倍晴明の腰掛石」とも)。

 安倍晴明が、那智にこもる花山法皇のもとを訪れる途中、この地で土砂が崩れることをを予知し、石に式神を封じ、土砂崩れを未然に防いだという。

 これも民家の庭先にありますので、ご覧になられるときには住民の方々のご迷惑にならないようにお願いいたします。

安倍晴明の屋敷(和歌山県那智勝浦町那智山)

 また、那智では、花山上皇を守護するために移り住んだ安倍晴明の屋敷があったとか、毎日2時間ほど滝行をしたとか、いくつかの伝説が伝えられています。 安倍晴明那智伝説

王子

 それと、熊野からは離れますが、大阪市阿倍野区阿倍野元町にある安倍晴明神社は熊野九十九王子のひとつ安倍王子神社の末社です。熊野への参詣道の道筋に安倍晴明が祭られています。

安倍晴明とは

 『今昔物語集』巻二十四第十六から。

◎ 今は昔、天文博士安倍晴明という陰陽師がいた。古の名だたる陰陽師にも劣らない、すぐれた陰陽師であった。幼いとき、賀茂忠行(かものただゆき)といった陰陽師について、昼夜、陰陽道を習ったので、いささかも心許ないことはなかった。

◎ ところで、晴明が若かったとき、師の忠行が下京の辺りに夜出むいていく、その供に晴明は徒歩で車の後ろについていった。忠行は車の中ですっかり寝入ってしまったところ、晴明が見ると、何ともいえない恐ろしい鬼どもが、車の前の方から向かってきている。
 晴明はこれを見て驚き、車の後ろに走りよって、忠行を起こしてこのことを告げると、忠行は驚いて目を覚まし、鬼が来るのを見て、法術をつかってたちまち、自分の身も、供の者どもも鬼の目から隠し、無事に通り抜けた。
 その後、忠行は晴明を大変可愛がり、まるで瓶の水を移すかのようにこの道を教えた。そして、ついに晴明は公私にわたり格別に用いられる陰陽師となったのであった。

◎ さて、忠行が亡くなった後、この晴明の家は土御門大路よりは北、西洞院大路よりは東にあった。その家に晴明がいたとき、年老いた僧が訪ねてきた。供に、十歳余りの少年を2人連れていた。晴明はこれを見て、「あなたはどなたですか? 何処から来たのですか?」と問うと、僧は「私は、播磨の国のものです。実は、陰陽道を習いたいと思っております。ところで、ただ今、あなた様がこの道において大変優れた方でいらっしゃるということを承りまして、ほんの少し教えていただきたいと思いまして、参ったのです」と言った。

◎ 晴明はこれを聞き、「この法師は陰陽道にかなり精通している奴に違いない。きっと、私を試そうと来たのであろう。こいつに下手に試されて変な結果になってはつまらない。試しに、この法師を少しからかってやろう」と思った。「この法師の供である二人の少年は、きっと式神であろう。もしも式神ならば、直ちに隠してしまえ」と、心のなかで念じて袖のなかに両手を引き入れて印を結び、密かに呪を唱えた。

 そうして後、晴明は法師に、「たしかに承りました。ただし、今日はその暇がありません。一旦帰っていただいて、のちに良い日を選んでまたいらっしゃい。習いたいと思っていることはお教え申し上げましょう」と答えた。法師は「ああ、有り難い」と言って、手を擦りあわせて額にあてると、立ちあがって走り去った。

 もう一、二町(一町は約109m)は行っただろうかと思うころ、この法師がまたやってきた。晴明が見ていると、人が隠れそうなところとして車置き場などを覗き歩いているようだ。覗き歩いてから、晴明の前に寄って来て、「私の供につれてきました少年が二人とも急にいなくなってしまいました。それを返してください」と言った。

 晴明は、「御房はまた、おかしな事を言う方ですね。この晴明が何故他人の供をしている少年を取るでしょうか」と言った。
 法師は「あなた様のおっしゃることは、まことにごもっともなことでございます。どうかお許し下さい。」と詫びたので、晴明は「よしよし。御房が人を試そうとして式神を使ってやってきたのが面白くなかったのだ。他の人を試すのならそうすればいいが、晴明にこのようなことをしてはならぬ」と言って、袖に手を引き入れて、呪文を唱えるようにして、しばらくすると、外の方から童子が二人とも走ってきて、法師の前に出てきた。

 そのときに法師は、「まことに優れた方でいらっしゃるとお聞きしたので、お試ししてみようと思いまして、参ったのでございます。それに式神は昔から、使うことは簡単でも、人の使っているのを隠すことはとてもとても、出来ることではございません。なんと素晴らしいことでしょう。これから、是非とも御弟子としておつかえいたしとうございます」と言って、すぐに名札を書いて差し出した(※この法師、清明にはかなわなかったけれども、ただ者ではありません。播磨の国の陰陽師で、名は智徳。すぐれた陰陽の技をもち、その活躍は『今昔物語集』巻二十四第十九に見られます)。

◎ また、この晴明が広沢の寛朝僧正と申し上げた人(※この僧正もただ者ではない。ちょいと尻を蹴っただけで、盗人を吹き飛ばしてしまう怪力の持ち主であった。しかも宇多天皇の皇孫。盗人を蹴り飛ばす話は『今昔物語集』巻二十三第二十にあります)の御坊に参って、御用を承っていたところ、若い公達、僧たちがいて、晴明にいろいろと話しかけて、「あなたは式神をお使いになるそうですが、たちまちに人を殺すことも出来るのでしょうか?」と言った。

 晴明は「この道の大事をなんと不躾にお聞きになさることよ」と言って、「簡単には殺せませんが、少し力を入れてやりさえすれば必ず殺してみせます。虫などでしたら、ちょっとしたことで殺せますが、生きかえらせる方法を知らないので、罪になってしまうから、無益なことです」など言っていると、庭から蛙が五、六匹ばかり飛びはねながら、池のほとりに行ったのを見て、公達が「それでは、あれを一匹殺してください。あなたの力を試してみましょう」と言った。

 すると、晴明は「罪なことをなさる方ですね。そうではあっても、私をお試しなさるというのでは」と言って、草の葉を摘み切って呪文を唱えるようにして、蛙の方へ投げやったところ、その草の葉が蛙の上に懸かると見るや、蛙は真平らに潰れて死んでしまった。僧たちはこれを見て、色を失って恐れおののいた。

◎ この晴明は、家の中に人がいないときには式神を使っているのだろうか、人もいないというのに蔀(しとみ。昔の建物にあった、日光をよけ風雨を防ぐために格子)が上げ下ろしされることがあった。また、門も、閉じる人もないのに閉じられたりすることもあった。このように不思議なことが多かった、と語り伝えている。

◎ その子孫は、今も公私にわたって仕えて、重んじられている。その土御門の屋敷も、歴代相伝の所にある。その子孫のもとでも、最近になるまで式神の声が聞こえた。だから、晴明はやはり、ただ者ではなかったのである、と語り伝えているということだ。

 安倍晴明とはこのような人物なのでした。

熊野観光プラン:安倍晴明をめぐる旅

南方熊楠の随筆:紀州俗伝(口語訳7-4)はえ、安倍晴明
南方熊楠の随筆:紀州俗伝(口語訳15-2)血を吸わない蛭

(てつ)

2003.2.5 更新
2009.5.28 更新
2010.8.12 更新
2020.3.13 更新

参考文献