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「熊野と平家」草稿

大河ドラマ「平清盛」の登場人物について

2012年1月31日(火)に、本宮町商工会の主催で「道の駅 奥熊野古道ほんぐう」にて「熊野と平家」について話をさせていただきました。これはそのための草稿です。

 

清盛が活躍した時代というのは熊野詣が盛んだった時代です。大河ドラマの主要な登場人物の多くが熊野を詣でています。熊野を詣でた人がどんな人だったのかを知ることができるというだけでも、熊野に住む者としては見る価値があります。ぜひご覧になってください。

白河法皇

 伊東四朗さん、すごい迫力でした。大河ドラマでは清盛は白河法皇の落としだねだという説を取っています。

平安末期の熊野ブームの火付け役が白河法皇です。白河法皇は、藤原摂関家から実権を奪い、院政という新しい政治の仕組みを作って絶大な権力を握りました。

この白河法皇がじつに9回もの熊野詣を行っています。

法皇という言葉について少し。天皇が退位すると上皇になります。上皇が出家すると法皇となります。熊野は京から遠く往復に1ヶ月かかるため、天皇の熊野詣はありませんでした。1ヶ月も京を留守にすることができないためです。天皇を退位して上皇になって初めて熊野に詣でることができます。

白河法皇以前には、宇多法皇や花山法皇が熊野を詣でたことはありましたが、それぞれ1回しか来ていないので、熊野ブームを生み出すようなことはありませんでした。

ところが、白河法皇は9回。熊野が広く知られるようになったのは白河法皇のお陰です。

白河法皇の最初の熊野詣は白河法皇が37歳のとき。このときに熊野検校という熊野三山を統括する役職が作られました。またもともと熊野で作っていた熊野三山別当という役職も、このとき正式に認められました。荘園が熊野三山に寄付されました。そういうことが初めての熊野詣のときにありました。

2回目の熊野詣はそれから26年後、63歳のとき。2回目以降からは頻繁に熊野を詣でるようになり、9回目まで、およそ1年半の1回のペースで熊野を詣でています。

関白の藤原忠実は日記に「毎年の熊野詣は実に不可思議である」と書き付けています。

3回目の熊野詣には、祇園女御とその養女の璋子を同行させたと言われます。璋子を孫の鳥羽天皇の妃にするための祈願が行われたようです。その翌月に璋子は鳥羽天皇の妃になっています。

祇園女御は白河法皇が晩年に寵愛した女性です。身分が低かったので正式な妃にはなっていません。祇園女御は幼くして父を失った璋子を養女にしていました。

ですので白河法皇が璋子の父親代わりなのですが、白河法皇は璋子とも性的な関係を結びます。鳥羽天皇にしてみたら、おじいさんの妾を妻にもらったという感じです。

5回目の熊野詣は身籠った璋子の無事を祈願しています。祈願の甲斐あり、璋子は無事、第1皇子を出産します。その子が後の崇徳天皇です。

その子が実は鳥羽の子ではなく白河の子であると、そのような噂がありました。鳥羽の妃になってからも璋子と白河の関係は続いていたらしいです。鳥羽天皇はそんなわけで、その子を叔父子と言って嫌いました。自分の子でありながら、おじいさんの子、つまり父親の弟、おじさんでもあるということです。

白河は崇徳をかわいがり、鳥羽を20歳の若さで退位させ、崇徳を5歳で即位させました。鳥羽は20歳の若さで天皇でなくなり、かといって政治の実権は白河が握っているという宙ぶらりんな状態に追いやられました。

そのような鳥羽と、そして璋子を連れて、白河法皇は7回目から9回目までの熊野詣を行っています。9回目の熊野詣の翌年に77歳で白河法皇は亡くなりました。

白河上皇

祇園女御

祇園女御ですが、『平家物語』では祇園女御が清盛の母であると書かれています。白河法皇の子を身籠った祇園女御を、白河法皇がご褒美に、平忠盛に下げ渡したとあります。
「産まれてきた子が女の子であれば自分の子とし、男の子であれば忠盛が育てよ」との白河法皇の仰せで、後日、産まれてきた子が男の子であることの報告をするわけですが、その報告を熊野詣の道中に行っています。糸鹿坂という場所です。

清盛の母は祇園女御その人ではなく、祇園女御の妹だというのが本当のようです。妹が清盛を産み、若くして亡くなったので、祇園女御が名目上の母親になったということらしいです。清盛の出世には祇園女御の力添えがあったものと思われます。

白河法皇の熊野詣に同行したようなので、何回か回数はわかりませんが、熊野に来ているようです。

待賢門院 璋子

かなり怖い女性です。大河ドラマでは、自分の子でないのにかわいがれるかという鳥羽天皇に対して、「おじいさまの種なのだから叔父子と思えばよろしいのでは」というようなことを言ってしまいます。
関白の藤原忠実の日記には「奇怪不可思議の女御か」とか「乱行の人」と書き付けられています。

璋子は熊野には12回か13回詣でています。

鳥羽上皇

20歳の若さで5歳の崇徳天皇に譲位させられ、憤懣やるかたなかった鳥羽上皇ですが、白河法皇が亡くなったあとは、白河法皇の院政を引き継ぎ、絶大な権力を握りました。熊野詣も引き継いで、上皇にあった33年間に21回もの熊野詣を行っています。およそ1年7ヶ月に1回のペースです。

10回目の熊野詣のときには、本宮の神前で、すべての仏典、御経を金字、金色の字で書き写すことを誓っています。

その10年後の21回目の熊野詣のときに、その金字で書写した仏典4728巻を本宮の神前に捧げました。当時、すべての仏典を書写することが最大の功徳だと考えられていたので、鳥羽上皇もこれで安心して死ねるとほっとしたのかもしれません。これが最後の熊野詣で、この3年後に54歳で鳥羽上皇は亡くなりました。

鳥羽上皇

美福門院 得子

鳥羽上皇の院政開始後、璋子に代わって寵愛した妃です。第9皇子、後の近衛天皇を産みます。
鳥羽上皇が亡くなった後は、鳥羽上皇の遺言により実権を与えられ、最高権力者となります。
熊野には4回詣でています。

崇徳上皇

鳥羽上皇が叔父子と言って嫌った子です。5歳で即位し、22歳で退位させられ、上皇となります。実権は鳥羽上皇が握ったままで、かつての鳥羽上皇のように宙ぶらりんな状況に追いやられます。鳥羽上皇の10回目の熊野詣に同行していて、それが最初で最後の熊野詣となりました。

平治の乱で破れて、讃岐に流され、配流先で亡くなり、後に日本史上最大の怨霊となります。

崇徳上皇

後白河上皇

鳥羽上皇の第4皇子です。崇徳上皇の弟で、母親も同じ、璋子です。崇徳の継の次の天皇です。

後白河上皇は上皇にあった34年間の間に34回の熊野詣を行っています。1年に1回のペース。

1回目の熊野詣のときは平清盛がお供をしています。平治の乱というのがあった翌年のことです。この熊野詣の最中に京では鳥羽上皇崩御後に実権を握っていた得子が亡くなりました。

往復におよそ1ヶ月かかる熊野詣を毎年行っているわけですから、熊野詣に出かけている最中に京で重大なことが起こるということもときにはありました。

11回目の熊野詣の最中には、清盛が病で倒れるということがありました。後白河上皇は熊野詣の服装のまま、見舞いに駆けつけました。

後白河上皇の熊野詣では今様が奉納されました。
今様というのは当時の流行歌です。大河ドラマで祇園女御などが歌っている「遊びをせんとやうまれけん たわむれせんとや生まれけん」という歌も今様です。

後白河上皇は今様に夢中で、今様を集めた『梁塵秘抄』という歌謡集を作ります。それには歌だけでなく、後白河上皇の今様への関わりが書かれていて、1回目と2回目の12回目の熊野詣で今様を歌ったときのことが書かれています。

『梁塵秘抄』には熊野のことを歌った今様もいくつか納められていて、先日の大河ドラマで熊野のことを歌った今様が歌われました。どんな歌かというと、

熊野へ参るには紀路(きぢ)と伊勢路(いせぢ)のどれ近し どれ遠し広大慈悲の道なれば紀路も伊勢路も遠からず

この歌が歌われました。忠盛が殿上人になったのを家来たちがお祝いする場面です。忠盛が殿上人になったのも熊野権現のおかげ。熊野権現への感謝を表わすためにこの歌を歌ったということだと思います。

この他にも熊野が関連する今様がいくつかあります。

後白河上皇

高階通憲(たかしなのみちのり、後の信西)

阿部サダヲが演じていますので、とぼけた感じですが、当時最高の学者です。出家して信西と名乗りました。
鳥羽上皇のブレーンとして活躍し、鳥羽上皇の熊野詣に同行しています。

信西は後白河上皇の父親代わりで、後白河が天皇になれたのも信西の働きかけがあったからです。
鳥羽上皇が亡くなったときは信西が葬儀を取り仕切りました。
鳥羽上皇崩御後は、後白河のブレーンとして絶大な権力を握りました。
信西が力を持ちすぎたので、それに対する反発から平治の乱が起こりました。

信西

待賢門院堀河

堀河は歌人として知られ、百人一首にも歌が採られています。

長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

末長く変わらないあなたのお心をも知らずにお別れした今朝は、寝乱れているこの黒髪のように、心が乱れて物思いします。

璋子に仕えたので、璋子のお供として熊野に来たことはあると思います。はっきりとは確認できませんでしたが、『新古今和歌集』に、他の人の歌ですが「堀河が大和の方から熊野へ詣でたが」というようなことが書かれています。

西行とも親しかったようで歌のやり取りもしています。

佐藤義清(さとうのりきよ、後の西行)

18歳から上皇の身辺を警護する北面の武士として鳥羽上皇に仕えていましたが、23歳で突然出家。西行と名乗りました。
北面の武士の同僚に清盛がいました。清盛と西行は同い年です。
璋子に恋心を抱いていたらしいです。璋子との悲恋が出家の原因であるという説もあります。

熊野には何回来ているのかわかりませんが、十数首の歌を残しています。

本宮では、七越の峰の上にのぼる月を見て歌を詠んでいます。

たちのぼる月の辺りに雲消えて 光重ぬるななこしの峯

という歌です。

那智の滝を詠んだ歌や上富田町で詠んだ歌や熊野川町で詠んだ歌などが残されています。詳しくは私のHPをご覧ください。

西行

源為義

義朝のお父さん。為義は子だくさんで、50人ほどの子供がいたといわれます。熊野にも2人の子供がいて、1人が丹鶴姫。もう1人が新宮十郎行家。熊野に来て現地の女性と結ばれて子供が出来たんでしょうね。

新宮に住んでいた行家は、後白河上皇の第2皇子以仁王が発した平家打倒の命令書を、諸国の源氏に伝えるという重要な任務を任されました。

この動きはただちに田辺の後に熊野別当となる湛増の知るところとなり、湛増は田辺勢と本宮勢を率いて、新宮に攻め入りました。平家方の田辺本宮対、源氏方の新宮那智の合戦が行われました。
京に先駆けてこの熊野の地で源平合戦の初戦が行われたということです。
熊野が動くとき日本が動く、日本が動くとき熊野が動く、という言葉がありますが、まさにその通りで、日本が動く源平合戦が熊野の地から行われました。

以仁王の挙兵は田辺の湛増に察知されたことにより失敗しましたが、その平家打倒の命令書は生き続け、諸国の源氏を平家打倒に立ち上がらせました。

行家は後に甥の頼朝とうまくいかなくなり、敵対して捕えられ処刑されました。

もう1人の為義の子供、丹鶴姫は頼朝とも関係も良好で、平家が亡んだ後は鎌倉将軍家の一族ということで絶大な勢力をふるいました。神倉神社の石段は頼朝の寄進と伝えられます。

源為義

北条政子

北条政子は熊野には2回詣でています。
北条政子は頼朝の死後、出家して、尼将軍と呼ばれますが、熊野古道沿いに尼将軍供養塔という石塔が2基あります。スーパーセンターオークワの近くと那智山へ向かう山道の途中にあります。それらは北条政子が我が子の供養のために建てた供養塔だと伝えられます。

平清盛

『平家物語』の冒頭、巻1「鱸」で「そもそも平家がこのように繁栄したのは熊野権現の御利益であると噂された」と語られます。

清盛が伊勢から船を使って熊野に詣でる途中に、その船に鱸という魚が飛込んできました。普通、熊野詣の道中は肉や魚は食べてはいけないのですが、そのときは先達の山伏が「これは熊野権現の御利益です。お召し上がりください」というので、清盛自ら調理して食べ、家来にも食べさせた。このことがあってから清盛は太政大臣になり、平家は繁栄したというようなことが書かれています。

鱸という魚は、宇井・榎本・鈴木の熊野三党と呼ばれた熊野の有力者のひとつの鈴木家のことを表わしていて、清盛に熊野が付いたということを表わしていると考えられます。清盛に熊野がついたことで平家の繁栄が始まったということです。

清盛は20歳のとき、肥後守という役職に就きますが、それは父親の忠盛の熊野本宮造営の功績を息子の清盛に譲ってのものです。

清盛が何回熊野に来ているかはわかりませんが、何回か来ています。
清盛の熊野詣のエピソードでもっとも知られているのが平治元年のときのことです。清盛は息子や家来たちと熊野詣に出かけました。その隙を狙って京では源義朝ら反信西派がクーデターを起こしました。その知らせを熊野詣の道中、切目の辺りで聞いて、清盛は熊野の神木であるナギの木の枝を手折って左袖に挿し、熊野権現に勝利を祈願して引き返し、見事クーデターを鎮圧しました。

ナギの木は熊野のご神木で、その葉は魔除けとなり、帰りの道中を守護してくれるものと信じられていました。熊野三山を詣でた人は熊野三山それぞれからお守りとしてナギの葉を手渡されました。

清盛はナギの葉を身に付けて熊野権現の守護を得て、義朝らとの戦いに勝ち、これにより平家が国家的な軍事力・警察力を独占することになりました。これが平治の乱です。

その翌年、後白河上皇の離宮の敷地内に新熊野神社が創建されます。その造営には清盛が当たりました。熊野の霊地を京に再現するために、遥々熊野から土砂や材木が運ばれたそうです。

この新熊野神社の完成を待って、後白河上皇初めての熊野詣が行われました。この後白河上皇初めての熊野詣には清盛もお供として同行しました。

その後、やはり後白河上皇の離宮の敷地内に仏堂が建てられるのですが、その仏堂の造営も清盛が担当します。その仏堂、今は三十三間堂の名で知られます。

三十三間堂は、後白河上皇が頭痛に悩まされていて、頭痛平癒を祈願して建立された仏堂です。

その三十三間堂の棟木には熊野の木が使われたという伝説があります。
紀和町楊枝に楊枝薬師というお堂があります。そこにかつて高さ100m以上の柳の樹がありました。その柳の樹を伐り倒して京に運び、三十三間堂の棟木に使ったとされます。その木を伐り倒すときに熊野川の対岸まで伐り倒した先が届いたといいます。

その木を棟木に使って三十三間堂を建てたところ、後白河上皇の頭痛は平癒しました。後白河上皇は柳の樹の伐り跡に寺を建て、自ら刻んだ薬師如来を安置し、「頭痛山平癒寺」と名づけたと伝えられます。

楊枝薬師、今は小さなお堂ですが、創建当時は非常に大きなお寺だったそうです。

熊野本宮大社の宝物に「平清盛奉納紺紙金泥経」があります。

平清盛

平家盛

清盛の弟。家盛の母は正室の宗子で、忠盛の血の繋がっている子供としては長男になります。ですので、家盛が後継者となることもあり得ました。
しかし、この家盛は20代中頃に鳥羽上皇の熊野詣に同行して、その帰りの道中に病気で亡くなってしまいます。病気だったのに無理して同行して、病気が悪化して、京にたどり着く前に亡くなってしまったのです。この家盛の死により清盛の平家の後継者としての立場が固まりました。

平治の乱で源頼朝(13歳)が捕えられて処刑されるところを、その命を助けるようにと宗子が清盛に嘆願するのですが、それは頼朝が家盛に似ていたからだと『平治物語』には書かれています。

平忠度

清盛の弟。平忠盛の六男が熊野生まれの熊野育ちの忠度。熊野生まれの熊野育ちと言われ、「熊野育ちの大力の早業」と称されました。熊野の男は力が強いことで知られていたようです。

忠度は武芸にも和歌の道にも優れた文武両道の武将で、敵にも味方にも尊敬され、討ち取られたときは敵も味方もその死を残念がったといわれます。

平忠度

建春門院 滋子

清盛の妻の宗子の妹です。後白河上皇の妃になり、高倉天皇を産みます。

滋子の熊野詣の回数は4回。後白河上皇と一緒に熊野を詣でています。時忠や宗盛もお供として同行しています。

『平家物語』(長門本)には、滋子が熊野本宮で舞の奉納をしていると、突然大雨が降って来て、それにもかかわらず、滋子は少しもたじろがずに舞を続けたという話が書かれています。

平家と後白河上皇を繋ぐ役割を果たしていた女性です。

「平家にあらずんば人にあらず」ということを言ったのが滋子の兄の時忠らしいです。

建春門院滋子

平家貞

平忠盛の側近で、忠盛の死後は清盛に仕えます。
平治の乱のとき、清盛一行は熊野詣の道中で、鎧も武器もないのでどうしようと清盛が迷っていると、家貞が長櫃を50棹持って来させました。開けてみると、その中に鎧と弓矢が50人分入っていました。万が一のことを考えて用意して持ち歩いていたのだと家貞はいいます。
熊野詣の衣装の上に鎧を付けて、熊野権現に勝利を祈願して引き返してクーデターを鎮圧しました。家貞のお陰で、平治の乱に勝利し、平家の力は大きくなります。

平重盛

清盛の嫡男。
重盛も何回か熊野に来ていて、熊野三山造営奉行を務めたと伝えられます。ですので、重盛手植えの木と伝えられる木が何本かあります。
速玉大社の大きなナギの木、日本最大のナギの木ですが、それも重盛手植えの木と伝わります。那智大社の境内にある楠も重盛手植えの木と伝わります。紀和町長尾にある長全寺のナギの木も重盛手植えと伝わります。

『平家物語』には重盛最後の熊野詣の様子が書かれています。重盛は息子たちと熊野を詣で、本宮では「父の悪い心を和らげてください。さもなければ私が来世で苦しまないように寿命を縮めてください」と祈願します。
京に帰って間もなく重盛は病にかかります。これは熊野権現が願いを聞き入れてくれたことなのだからと治療も祈祷もせずに亡くなりました。

『平家物語』では熊野詣に行ってから病に罹ったように書いてありますが、実際は行く前から病気で、当時の貴族の日記によると、熊野詣に出発する前にすでに吐血し食事も出来ないような状態だったらしいです。病気をおして、死を覚悟して最後の熊野詣に出発したということのようです。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」という言葉が本宮大社の第3殿の前に掲げられていますが、これは、江戸時代後期の儒学者の頼山陽が書いた『日本外史』という歴史書のなかに登場する重盛の言葉です。

『日本外史』は多くの幕末の志士たちに読まれ、明治維新に大きな影響を与えたといわれます。

平重盛

平維盛

重盛の嫡男。維盛も何回か来ています。
『平家物語』で語られるのは、重盛が亡くなる直前に来たときに同行したものと、那智の海に入水するときのものと。

維盛は一の谷の戦いの前後に戦線離脱し、高野山に行って出家し、それから自ら命を絶とうと熊野を目指します。熊野三山を詣で、その後、那智の浜で船出し、念仏を百編ほど称えてから海に飛込んで亡くなりました。

このときに入水せずに、かくまわれて生き延びたという伝説もあります。

平維盛

平六代

維盛の嫡男。京に隠れ住んでいたところを捕えられます。当時12歳。16歳で出家して、高野山に参り、その後、熊野を詣でて、亡き父を忍びます。

平六代

(てつ)

2013.12.23 UP
2021.5.12 更新

参考文献