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剣巻(つるぎのまき)現代語訳4 源為義

剣巻 現代語訳4

1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝 
6 源義経
 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ

 源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。

源為義

Minamoto no Tameyoshi.jpg
源為義像/白峰神宮蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

義家は子どもが多くいたけれども、嫡子対馬守義親は出雲国で謀反を起こして、因幡守正盛を追討の使に下されて、かの国で討たれた。二男の河内判官義忠、三男の式部大輔義国にも譲らず、四男の六条判官為義に譲った。14歳の年に伯父の美濃守義綱が謀反を起こしたと伝え聞き、為義が討手として下った。義綱は甥の為義が向うと聞いて、髻(もとどり)を切り、降参して上洛した。これも剣の効用であると思われた。

また18歳のときに南都の衆徒が朝家を恨み奉り、数万人の大勢で京へ攻め上ったのを、為義が16騎にて栗子山に馳せ向い、追い返した。これも同じく剣の効用であると思われた。そのとき比叡山の法師が1首の狂歌を書いて高札に立てた。
   奈良法師栗子山までしぶりきていか物の具をむきぞ取らるる
奈良法師がこれを無念に思って、何としても返歌をしようと足を止めていたところ、阿波上座という者に謀られて、比叡山の法師が禁獄されたと聞き、奈良法師は栗子山の答歌に、
   比叡法師あはの上座にはかられて緊しき獄につがれけるかな
と詠んだ。

さて為義は14歳で伯父を捕虜にした勧賞に、左近将監になり、18歳で南都の衆徒を防いだ恩忠に兵衛尉になった。28歳で左衛門、39歳で検非違使になった。その後、陸奥国を望み申したが、「陸奥国は為義のためには不吉である。祖父頼義は9ヶ年の合戦し、親父義家は3ヶ年の戦さをした。今なお恨みが残る国である。為義が国司になったならば、また陸奥国は乱れるだろう。他国にせよ」と仰せがあったので、「先祖の国をいただけない者が他国を受領しても何ができるだろうか」と言って、ついに受領しなかった。

為義の娘・たつたはらの女房と、熊野別当・教真

為義は腹々に男女46人の子があった。熊野にも女房がいた。娘を「たつたはらの女房」と申した。

白河院が熊野御参詣のときに「この山には別当はあるのか」とお尋ねになったのに、「いまだございません」と申したので、ぜひ別当を設けようと、別当の器を尋ねられた。ここに宇井党、鈴木の党と申す者たちがいるが、熊野権現が摩伽陀国より我が朝へ飛び渡りになられたとき、左右の羽となって渡った者である。これによって熊野を我がままに管領して、また我が物顔に振舞っている。鈴木は「我が身はその器量に足らない」と言って、折しも権現の御前に花を供えて籠っている山臥を別当になすべきであると計らい申した。これが教真別当の始まりである。

「別当は世襲すべきものである。聖では勤まらない。妻を合わせよ」とおっしゃって、誰かいるかと尋ねると、為義の娘のたつたはらの女房がよかろうと、教真に合わせた。為義はそれを伝え聞いて、「為義の婿には源平両家の間で弓矢に携わって秀でている者をこそと思っていたが、諸寺・諸山の別当執行というのは好ましい者もあり悪しき者もある。行徳が群を抜いたのならば左様な官にも職にもなると聞く。行末も知らぬ者を押して合わせるのは不思議である」と言って音信を不通にした。不孝の娘であることだ。

為義、熊野別当・教真に源氏重代の剣を与える

そもそも為義が伝え持っている2つの剣は終夜吼えた。鬼丸の吼えた音は獅子の音に似ていた。蜘蛛切が吠えた音は蛇の泣くのに似ていた。故に鬼丸を「獅子の子」と改名し、蜘蛛切を「吼丸」と号した。

このようなところに源平が分かれての合戦が起こるだろうとの噂が聞こえた。洛中の騒動はひととおりでない。いかなる遠国深山の奥までもこの騒ぎが伝わった。教真別当はこれを聞いて「我が身は不孝の者であるけれども、このようなときに力を合わせてこそ、不孝も赦されるだろう」と、常住の客僧、山内の悪党等上下を嫌わず催し立てて、一万余騎の軍勢で都に上った。

人々はこれを見て「これはいかなる人であろうか。和泉・紀伊国の間にはかような大名があるとも思われない」と、詳しくこれを尋ねると、為義の婿、熊野の別当教真である。舅の方人のために上ったと言ったので、為義もこれを聞いて「氏、種姓は知らねども、甲斐甲斐しき者である。いかなる人の一門か」と尋ねると、「実方中将の末孫である」と申したので、「さては為義が見下せる人ではなかった。今まで対面しなかったのは愚かであった」と、招き寄せ、初めて対面した。志の余りであろうか、先祖代々受け継いできたひと組の剣を取り分けて、吼丸を婿の引出物として与えた。教真別当はこの剣を得て、「これは源氏重代の剣である。教真が持つべきではない」と、熊野権現に奉納した。

獅子の子・小烏

さて為義はひと組で持っていた剣を1つ失って、片手がないように思われたので、播磨国からよい鍛冶を召し上らせて、獅子の子を手本にして、少しも違えず造られた。最上の剣であったので、とてもお悦びになった。目貫に烏を作り入れたので、「小烏」と名づけた。為義は獅子の子・小烏をひと組にして秘蔵したが、小烏は2分ばかり長かった。あるとき2つの剣を抜いて、障子に寄せ懸けて置かれていたが、人も触らないのに、からからと倒れる音が聞こえたので、「どうして剣が転んだのか。壊れたのであろうか」と、取り寄せてご覧になると、日頃は2分ばかり長いと思っていた小烏が、獅子の子と同じようになっていた。「不思議なことだ。そのようなことがあろうか。斬れたのか、折れたのか」と、先を見たけれども、斬れも折れもしていなかった。怪しんで柄を見ると目貫が折れて無かった。抜いてこれを見ると、柄の中2分許り新しく切れて、目貫を突き抜いて下がったと見えた。これはきっと獅子の子が切ったのだと心得て、獅子の子を改名して「友切」と名づけた。

 

 

(てつ)

2019.11.1 UP
2019.12.20 更新

参考文献