オンラインサロン「みんなの森のサロン」のために用意した原稿
2022年1月20日(木)、オンラインサロン「みんなの森のサロン」様にお招きいただき、「森と熊楠」をテーマに1時間ほどお話させていただいたときの原稿です。
そのときのアーカイブ動画は下記ページから電子チケットを購入していただければご視聴いただけます(¥2,000 税込)。
「森の案内人・三浦豊 と みんなの森のサロン」シーズン2/19話 「森と熊楠/ゲスト:大竹哲夫さん」2022年1月20日
※ ※ ※ ※ ※
こんばんは。只今ご紹介いただきました大竹哲夫と申します。
これから森と南方熊楠をテーマにお話させていただきます。
今から100年ほど前に南方熊楠という人が森をどのように考えていたのかお伝えできたらと思っています。本日はよろしくお願いいたします。
(中略)
20代前半の頃の南方熊楠の写真
これはアメリカにいたときの20代前半の頃の熊楠。
熊楠という人は和歌山市、紀州藩の城下町で生まれ育ちました。
20歳の頃に海外に出て、アメリカやイギリスで学んだのち、30代半ばに帰国して、熊野に移住し、それからずっと74歳で亡くなるまで熊野で暮らし続けました。
熊楠が熊野で暮らし続けたのは熊野に豊かな森があったからです。
熊楠の学問の基礎は和漢の書物や大英博物館などで学んだ欧米の学問にありますが、熊野の森が熊楠の学問を大きく育てました。
もし熊楠が熊野に来ず、アメリカやイギリス、あるいは和歌山市や東京などで暮らしていたとしたら熊楠の学問は全く違ったものになっていたことと思います。
南方熊楠邸
これは熊楠の家です。庭がまるで森のようです。庭には数百種の草花や木々が生えていました。熊楠は49歳からの25年、亡くなるまでこの森のような場所で過ごしました。
南方熊楠邸
庭には大きな楠が生えています。
庭の楠
予が現住宅地に大きな樟の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も大風に損ぜず、急雨の節書斎から本宅へ走り往くを援護する、その功抜群だ。
予の今の住宅地には大きな樟の樹がある。その下は快晴でも薄暗いばかりに枝葉が茂っていて、炎天にも熱くなく、屋根も大風に壊されず、急な雨の時には書斎から本宅へ走り往くのを援護する、その功抜群だ。
と、熊楠はこの庭の楠を自慢に思っていました。
そもそも熊楠はその名前からして、熊野の森と深いなつながりを持っていました。
藤白神社 楠神社
熊楠の名は、和歌山県海南市にある藤白神社の神主から授かったものです。藤白神社はもと熊野の王子の1つです。王子というのは熊野詣での道沿いにある熊野の神様をお祭りする神社です。大阪の淀川河口から熊野までおよそ100の王子がありました。藤白神社はもとは藤白王子と呼ばれ、熊野一の鳥居(熊野の入り口)と称された熊野にとって重要な場所です。
南方家には当時、藤白神社の神主から子供の名前の1文字を授けてもらうという風習がありました。
熊野の「熊」、藤白の「藤」、そして藤白神社に神様として祀られているこの写真の楠神社にちなんだ「楠」などのうちから一文字が授けられました。
熊と楠の2文字
なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので、四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。
熊楠の場合は特別に「熊」と「楠」の2文字を授けられました。熊楠という名前の意味するところは熊野の楠です。
4歳のときに重病になって家族に背負われて楠神社にお参りに行ったときのことを今でもありありと覚えている。楠を見ると特殊な感覚を覚える、と。
古来神社に楠あり
熊野はその植物帯半熱帯地のことゆえ、古来神社に樟あり、これを神体とし来たりたるに候て、これを伐るは何となく神の威厳を損じ候。
熊野は亜熱帯の地なので、古来神社に樟があって、楠を御神体、御神木としてきました。
熊楠はその名の通り、熊野の楠、楠に象徴される熊野の森というものと、深く結びついた人生を送りました。
ここにご参加の方は熊楠についてはある程度ご存知のことと思いますが、いちおうさらっと熊楠がどんな人なのかお話させていただきます。
ネイチャー
南方熊楠は今から100年程前に熊野地方で暮しながら、学問の世界で国際的な活躍をした人物です。
現在、世界で最も権威のある科学雑誌とされる『ネイチャー』ですが、その『ネイチャー』に世界で最も多く論文が掲載されているのが南方熊楠だといわれます。『ネイチャー』のサイトで今もお金を払えば読めるようです。
熊楠の『ネイチャー』掲載論文数は51篇。これは一研究者の『ネイチャー』掲載論文数としては歴代最多、世界最多だといわれています。
南方熊楠は、幕末、明治になる前年、慶応三年(1867年)の生まれです。ですので熊楠は江戸時代生まれの人物です。
江戸時代生まれの日本人が英語で論文を書いて『ネイチャー』に多くに論文が掲載されました。それだけでも熊楠の凄さがわかると思います。
変形菌
熊楠は日本における変形菌研究の先駆者としても知られます。
熊楠が採集し、南方の名がついた変形菌もあります。
ミナカテラ・ロンギフィラ彩色図
ミナカテラ・ロンギフィラ。和名はミナカタホコリ。
国立科学博物館の南方熊楠デジタルアーカイブで彩色図を見ることができます。
熊楠Tシャツ
これは私が製作に関わった熊楠Tシャツです。熊楠直筆の絵や文字を組み合わせてデザインしました。変形菌のライフサイクルを絵柄に入れました。
変形菌は昔は粘菌と呼ばれました。粘る菌。触るとネバネバします。「菌」と付きますが、菌類ではありません。
変形菌は普段はアメーバーのような姿をしていて、動いてバクテリアなどを食べて生きているのですが、あるとき小さなキノコのような形になって胞子を飛ばして繁殖します。動物とキノコの間を行き来するような面白い、小さな生き物です。
奇態の生物
粘菌は、動植物いずれともつかぬ奇態の生物にて、英国のランカスター教授などは、この物最初他の星界よりこの地に墜ち来たり動植物の原となりしならん、と申す。
熊楠は変形菌のことを動植物いずれともつかない不思議な生物だと言っています。
ごくありふれた身近な生き物ですが、人目につかず、人の生活への影響もほとんどないためか、日本ではあまり研究がなされていませんでした。
いま日本には500種類ほどの変形菌がいますが、熊楠が研究を始める前は日本国内には18種類しか見つかっていませんでした。それを、熊楠が研究を始めて、弟子や協力者を育てて、熊楠が60代の頃には(30年ほど経った昭和5年ころには)230種類にまでに増やしました。
変形菌の研究者で有名な人に昭和天皇がいます。昭和天皇は、変形菌研究の大先輩である熊楠をリスペクトしていて、田辺に行幸したときに熊楠から講義を受ける時間を設けました。
戦前の日本において一番多く変形菌の新種を採集したのは、熊楠と昭和天皇です。ともに5種の新種の変形菌を採集しました。戦前の日本においては熊楠と昭和天皇が変形菌採集のツートップでした。
日本民俗学最大の恩人
熊楠は柳田國男と共に日本の民俗学を創始した民俗学者でもあります。柳田國男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人として尊敬している」と述べています。ただ世界を相手にする熊楠の学問は柳田には巨大すぎて理解できなかった部分も多々あったのかと思います。
エコロギー
これは和歌山県知事に送った手紙の一文です。エコロギーという言葉があります。エコロジーのことです。
熊楠はエコロジー(「エコロギー」)という言葉を使って神社の森を守るという自然保護運動を行いました。
熊楠の頃、今から100年ほど前、エコロジー(生態学)という学問はまだ草創期にありました。エコロジー(生態学)にとって基本的な概念であるエコシステム(生態系)という言葉すらまだない時代でした。熊楠は日本における自然保護運動の先駆者でもあります。
熊楠には生物学者だとか民俗学者だとかの肩書きを与えることができますが、どんな肩書きをもはみ出してしまう巨大さが熊楠にはあります。桁外れの規格外のすごい人だと思い思います。
(中略)
クマノチョウジゴケ
熊楠と森についてですが、熊楠は変形菌だけでなく、当時「隠花植物」と言われていた花のない植物全般を研究していました。藻やコケやシダ、地衣、キノコ。変形菌も隠花植物の仲間でした。
これはさっきのとは別の熊楠Tシャツですが、この右側の画像の絵が熊楠が採集し、南方の名が付いた新種のコケです。
Buxbaumia minakatae S.Okamura。
学名は読み方がわからないのですが、南方の名が入っています。和名はクマノチョウジゴケといいます。
(熊楠が採集して、日本のコケ植物研究の先駆者である岡村周諦(おかむらしゅうてい)という人に新種として報告してもらったものです。熊楠が採集し、南方の名が付き、また熊野を冠する植物ですが、残念ながら、現在、熊野では採集記録が得られていないということです。)
熊楠邸に残されていた隠花植物の標本
熊楠の家に残されていた隠花植物の標本の数は、菌類が約7600点、変形菌類が約6600点、淡水産の藻類が約5000点、コケ類が約1570点、地衣類が約700点。2万点を越えます。今は国立科学博物館の植物研究部で保管されています。
熊楠というと変形菌がクローズアップされますが、その他の隠花植物にも変形菌に劣らない熱意を込めて研究に取り組んでいました。
熊楠はそれらの植物を主に熊野各地の神社の森で採集しました。熊野各地の神社の森が熊楠の生物研究の土台でした。
熊野者といえば
ご承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでも分かるように、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり。
熊楠は熊野のことを、日本国内のうちにありながら熊野者といえば人間でないように言われた僻地だ、と。
蛮野の地
…熊野の勝浦、それから那智、当時実に英国より帰った小生にはズールー、ギニア辺以下に見えた蛮野の地に退居し、夏冬浴衣に縄の帯して、山野を跋渉し…
アフリカのズールー、ギニア辺りより野蛮な土地だと述べていてます。そのような野蛮な土地だからこそ、多様な生物が棲息する森が熊野には残されていました。
とは言っても熊野地方は古くから木材や木炭の産地だったので、熊楠の時代にすでに自然の森、原生林っぽい森というのはほとんどなくて、神社や、切り立った崖地やよほどの奥山か、そういうところくらいにしか自然の森というのは残されていませんでした。
だからこそ神社の森が大切でした。
アサイラム
オガタマノキ、カラスノサンショウの大木、一、二丈のもの、自生のタラヨウ一丈余のものなどは、何の用もなきものゆえ、わずかに神社の森を asylum として今日まで生を聊(りょう)せしなり。
熊楠は神社の森をアサイラムだと述べました。
英語でアサイラム、ドイツ語やフランス語でアジール。世俗の権力の及ばない場所のことです。
日本語だと無縁所(むえんじょ)。世俗的な縁を断ち切った場所。避難所、聖域、自由領域などとも訳されます。
人間の活動により生存を脅かされた生物は神社の森を避難所として数を減らしながらも今日まで生きのびてきました。神社の森は生物の避難所として保存しなければならないのだと熊楠は訴えました。
生物のアサイラムである神社の森は明治の末期、ガンガン破壊されていきました。
神社合祀
最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。
明治39年以降、明治政府は神社を整理統合して1町村に1社だけに、神社は1町村に1社だけにしなさいという神社合祀政策を推し進めました。
神社合祀。合わせて祀る。神社の統廃合です。潰された神社の森は伐られ、2度と神様が戻ってこられないように破壊されました。
熊野各地で行われた神社合祀は凄まじかったです。
都道府県別神社数
これは文化庁が公表している『宗教年鑑』の令和2年版から持ってきた都道府県別の神社数です。現在、最も神社の数が多い都道府県はどこかというと、新潟県で、4689社。2番目に多いのが兵庫県で、3873社。
逆に、最も神社が少ない県はどこかというと、沖縄県で16社。沖縄は明治より前は別の国だったので当然神社は少ないです。
2番目に神社が少ない県が和歌山県で、447社。新潟の10分の1以下です。和歌山県の隣の三重県は神社数が850社で38位で下から10番目。三重県は47都道府県中10番目に神社が少ない県です。
熊野地方を含む和歌山県と三重県ではもともと神社の数が少なかったのかというと、そんなことはありません。
和歌山県神社数(和歌山県統計書 明治42年)
和歌山県の統計書で神社の数を調べてみると、神社合祀政策が進められる前年、日露戦争が終戦した明治38年(1905年)には、和歌山県には5836社の神社がありました。今の新潟以上の数の神社がありました。
和歌山県神社数(和歌山県統計書 大正2年)
それが明治39年から神社合祀政策が始まって7年後の大正2年(1913年)には442社にまで減らされて、今の和歌山県の神社数と同じくらいになりました。和歌山県では7年間でおよそ92%の神社が潰されました。
お隣の三重県では、10413社あった神社が7年後には1165社にまで減らされました。三重県では7年間でおよそ89%の神社が潰されました。1町村に1社を原則にしたらこうなります。
この時期、全国では約20万社あった神社の13万社ほどに減ったということなので、全国平均ではおよそ35%の神社が潰されたということになります。
神社合祀の実施は各府県の知事に任されたので、都道府県により合祀を激しく行ったところとあまり行わなかったところがありました。
新潟県や兵庫県では1町村に1社の原則を無視し、7年間でおよそ34%の神社が潰される程度で済ませていますが、それに対して熊野地方を含む和歌山県と三重県では1町村に1社の原則に従い、およそ90%の神社が潰されました。
伊勢、熊野
伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる。
熊野と伊勢という日本の二大聖地のある和歌山と三重でひどい神社合祀が行われているのは珍事だと熊楠は憤っています。
明治政府は神道を以前のものとは異なるものに作り変えて、その新たな神道を国民に普及させようとしていました。
新たな神道はキリスト教をモデルにして作られました。イエス・キリストの代わりに天皇、聖書の代わりに『古事記』『日本書紀』、教会の代わりが神社、宣教師の代わりに神職で、神職が国民に説教して新たな神道を普及させるという体制を政府は作り上げようとしました。
新たな神道は国家のためのものなので、神社は集落や家や人々のための施設ではなく国家のための施設となりました。そのため国の都合で神社を潰すこともできるようになりました。
私の住む本宮町は明治時代にはだいたい4つの村に分かれていました。4つの村で60社ほどの神社があってそれが神社合祀で4社になりました。1村に1社、神社合祀の基本政策の通りになりました。
今は世界遺産の熊野古道「中辺路」沿いでもひどい神社合祀が行われました。
田辺から熊野本宮までの熊野古道沿いには20数社の王子がありましたけれども、そのうちで神社合祀で潰されなかったのはわずかに2社だけです。八上王子と滝尻王子、これだけ。他はすべて潰されて森が伐られました。
そうした無茶苦茶な神社の破壊を国は押し進めていたのです。そんな最中に、熊楠は神社の森を守るために立ち上がりました。
90%の神社が潰されて森を伐られたので、熊楠が守ることができた森はわずかしかありませんが、その熊楠が守ることができた森をいくつか紹介いたします。
神島
熊楠が守ることができた神社の森で一番有名なのは神島。田辺湾に浮ぶ無人島で、その名の通り神様の島です。熊楠が守り、熊楠が昭和天皇に拝謁するときの舞台となりました。今では国の天然記念物で、国の名勝です。
神島の昭和天皇行幸記念碑
熊楠が守ったという言い方をしましたが、もちろん熊楠1人の力だけで守れたわけではありません。これは普段は上陸禁止の神島にある、熊楠たちが建てた昭和天皇の行幸を記念した碑の裏面です。表面には「一枝もこころして吹け沖つ風わが天皇のめでましゝ森ぞ」という熊楠の歌が刻まれていて、その裏面には「新庄村及び南方研究所」と刻まれています。
熊楠が孤軍奮闘した、熊楠がⅠ人で戦ったということではなく、神社を守ったのは氏子たち自身です。実際に守れたところというのは、氏子たちの神社合祀反対の戦いを熊楠が猛烈に応援したという形になっていたのだと思います。
エコロジーの好模範島
「このほか実に世界に珍奇希有のもの多く、昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 ecology を、熊野で見るべき非常の好模範島なるに、……終にこの千古斧を入れざりし樹林が絶滅して、十年、二十年後に全く禿山とならんこと、かなしむにあまりあり。」
神島を熊楠はエコロジー、熊楠は植物棲態学と訳していますが、エコロジー(生態学)の研究によい模範的な島だと言っています。
湾内へ魚入り来るは
たとえば今度御心配をかけし当田辺湾の神島のごときも、千古斧を入れざる神林にて、湾内へ魚入り来るは主としてこの森存するにある。これすでに大なる財産に候わずや。
また田辺湾の中に魚が入ってくるのは神島の森があるからだ。神島の森は魚つき林で、漁民たちに経済的な利益をもたらしてくれる大きな財産だ。生態学という学問だけの話でなく、地域経済にとっても神島の森は大切なんだと熊楠は言っています。
漁民には、魚は緑が好きだから、海岸や島に森に残したら魚がそばにやってくるんだというある種の信仰のようなものがありました。漁業を続けていくには海岸に森を置いておかなければならないんだという。森を保全することがお金を稼ぎ続けるためには必要なんだという、自然を保全することでお金を稼げるんだという考え方が示されています。
闘鶏神社
これは闘鶏神社。熊楠の家から徒歩10分ほどで行けます。
ここは今は世界遺産で国の名勝です。この闘雞神社の森も熊楠が守りました。闘雞神社はさすがに大きな神社なので潰されはしませんでしたが、森の一部が伐採されたので、熊楠たちが抗議してそれ以上の伐採を食い止めました。
西牟婁郡の分の基点
小生、熊野植物精査西牟婁郡の分の基点は、実にこの闘鶏社の神林にて、言わば一坪ごとに奇異貴重の植物があるなり。
闘雞神社の森は熊楠の熊野の植物調査の西牟婁郡の分の基点、基準点でした。熊野は和歌山県の東西の牟婁郡、三重県の南北の牟婁郡、4つの牟婁郡に分けられますが、(熊楠が植物調査したのは和歌山県の東西の牟婁郡)西牟婁郡の分の基準点が闘鶏神社でした。
クラガリ山
当田辺の闘鶏権現のクラガリ山の神林もまたなかなかのものにて、当県で平地にはちょっと見られない密林なり。
熊楠は闘鶏神社の森をクラガリ山と呼びました。昼なお暗く、平地にはちょっと見られない密林だと。一坪、畳2枚分ごとに珍しい植物が生えているすごい森でした。
伊作田稲荷神社
これは伊作田稲荷神社。熊楠の家から徒歩30分ほどの所にあります。ここも熊楠がよく採集に訪れた場所です。
本邦希有の珍品
稲荷神社の柯(しい)の森林は本邦希有の珍品なり、紀州有田以北中国辺にかけて「しい」と称するは皆「マテバ柯」と呼び種類異にしてその実も味劣る。…その本当の柯の森林なせるは稲荷神社を措きて他に求むべからず、植物学界のために永く保護すべきなり。
伊作田稲荷神社の森は本邦希有の珍品なので、植物学界のために永く保護すべきだと述べています。
伊作田稲荷神社も、大きな神社なのでさすがに潰されはしませんでしたが、やはり森の一部が伐採され、熊楠が抗議してそれ以上の伐採を食い止めました。今は国の名勝です。
礒間の日吉神社と御子浜の神楽神社
熊楠の家から徒歩20分ほどの所にある礒間の日吉神社と御子浜(みこのはま)の神楽神社。この2つの神社は近くにあります。
田辺湾中第一の絶景
礒間の日吉社、御子浜の神楽社は、これに中入するに奇橋岩を以てし、田辺湾中第一の絶景なる上、上出如き珍異の生物少なからず。前日すでに二社を藤巌神社に合して、宮木を伐んと申出しと聞く。風景に替るに荒寥を以てせんこと誠に悲むべし。
この2つの神社の辺りを熊楠は田辺湾の中で第一の絶景と称賛しました。
観光する時の奇賞
また湊村礒間人家裏の「タブノ木」林(保安林)より同村御子ノ浜、神楽神社に至る間の丘陵神林は小区域ながら珍植物多し。行く行くこの辺へ都会の人士来たりて観光する時の奇賞はこの間に集まるべきなり。
日吉神社から神楽神社にかけての辺りが観光の見所となるだろう、と熊楠は述べています。この2つの神社も熊楠たちが守りました。
風景と空気が
唯だこの「風景」ばかりは田辺が第一だ。田辺人たるものものは此風景を利用して土地の繁栄を計る工夫をするがよい。今こそかように寂しいが、追々交通が便利になって見よ。必ず此風景と空気が第一等の金儲けの種になるのだ。
熊楠は、田辺の人たちに、
風景は田辺が一番だ。この風景を利用して地域の繁栄を計る工夫をせよ。追々交通が便利になったら必ずこの風景と、そして空気がいちばんの金儲けの種になるんだ、と。この景色と空気で儲ける策を立てよ、と。
そのように田辺の人たちに訴えました。
熊楠が夢見た田辺や熊野の未来の姿というのは、地域にある自然や文化的な資産を保全しながら観光資源として活用していく、持続可能性な観光地でした。そういう地域の未来を熊楠は夢見ました。
田中神社
これは田中神社。徒歩1時間半か2時間くらいの所にあります。
本邦風景の特風
この辺に柳田国男氏が本邦風景の特風といえる田中神社あり、勝景絶佳なり。
田の中にこんもりとした神社の森がある風景を柳田國男は日本に特有の風景だと言いました。そのような風景が熊野にもあって、それがこの田中神社です。
田中神社を八上神社に合祀
今回田中神社を八上神社に合祀したについて、その跡森を伐採して八上の神田とすると聞き及ぶ。…田中神社の風景美観と紫藤の優雅なること、並びに現時植物学上の大問題たる松葉蘭発生研究に最好の場所たること、…
田中神社は、神社としては八上神社という近くにある神社に合祀されて潰されてしまいました。しかしながら森だけは守っておけという熊楠の助言にしたがって氏子たちが森を守りました。神社を潰されても森を守ることができた場所というのはごくわずかしかありません。
田中神社はのちに和歌山県の天然記念物の第1号になり、今は国の名勝にもなりました。
(マツバランは根もなく葉もなく茎だけの、はじめて陸に上がった植物がそのままの姿で生き続けてきた「生きた化石」といわれる最も原始的なシダ植物。)
八上神社
田中神社の合祀先の八上神社も潰されかけましたが、氏子たちが合祀の執行を拒んで守ることができました。もとは熊野の王子の1つで、今では世界遺産で、国の名勝でもあります。
八上の桜咲きにけり
…八上王子は山家集に、西行、熊野へ参りにけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書きつけける、
待ち来つる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖の山風
とて名高き社なり。シイノキ密生して昼もなお闇く、…写真とりに行きしに光線入らず、止むを得ず社殿の後よりその一部を写せしほどのことなり。
西行法師が歌を詠んで社殿の瑞垣に書きつけたことで知られます。
待ち来つる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖の山風
八上王子の桜の花に出会えるのを期待して来たが、ちょうど咲いてくれていた。三栖山の風よ、強く吹いて花を散らさないでおくれ、という歌です。この西行の歌を手本に熊楠は高神島の行幸記念碑に刻む歌を作りました。
この西行の歌、熊楠の歌、どちらの歌も風に対して、ここには大切なものがあるから強く吹かないでおくれと呼びかける歌です。
(桜が有名で、江戸時代、紀州藩主だった徳川吉宗が江戸幕府の将軍になり、八上王子の桜を所望されたので江戸に小枝が送られたと言われます。)
継桜王子
これは継桜王子。熊野古道・中辺路沿いにある王子です。
野中の一方杉
また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。…年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過りて神徳を老樹の高きに比え仰がれたるなり。
熊楠は野中という地区にあるので野中王子と呼んでいます。そこにある野中の一方杉と呼ばれる8本の杉の大木群も熊楠が守りました。
熊野植物の精華
この外に、これらの古木に種々雑多の寄生植物、托生植物あり。いずれも熊野植物の精華を萃めたるものに御座候。御承知ごとく、殖産用に栽培せる森林と異り、千百年来斧斤を入れざりし神林は、諸草木相互の関係はなはだ密接錯雑致し、近ごろはエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出で来たりおることに御座候。
継桜王子の古木には種々雑多の寄生植物や着生植物が付いていました。「熊野植物の精華を萃めたもの」と熊楠が絶賛するくらいすごい森がありましたが、残念ながら神社は潰されてしまって森は伐採されてしまいました。それでも熊楠の抗議により、参道沿いにある一方杉だけは守ることができました。
引作神社
これは三重県美浜町にある引作神社の御神木の大楠。
全国一という大楠
三重県阿田和の村社、 引作神社に、周囲二丈の大杉、また全国一という目通り周囲四丈三尺すなわち直径一丈三尺余の大樟あり。これを伐りて三千円とかに売らんとて合祀を迫り、わずか五十余戸の村民これを嘆き、規定の神殿を建て、またさらに二千余円を積み立てしもなお脅迫止まず。合祀を肯んぜずんば刑罰を加うべしとの言で、止むを得ず合祀請願書に調印せるは去年末のことという。
この大楠も熊楠が守りました。ここに私が写っているのですが、わからないですよね。幹周り15.7m。推定樹齢は1500年。ここも神社は潰されて森は伐られてしまいましたが、この大楠だけはどうにか守ることができました。
平成元年(1989年)に環境庁が行った巨樹・巨木林調査によると幹周りの大きさは全国27位。残念ながら全国一ではありませんでしたが、三重県一の巨樹、熊野一の巨樹、紀伊半島一の巨樹であることが判明しました。今は三重県の天然記念物です。
熊野那智大社 飛瀧神社
熊楠の熊野植物調査の東牟婁郡の分の基準点は那智山でした。
熊野那智大社の元宮・飛瀧神社の御神体、那智の滝の水源林も熊楠が守りました。
滝水を蓄え四時涸落せず
寺山は大樫の密林なり。古え滝水を蓄え四時涸落(こらく)せず。その実は米穀の少なき山民の常食とするに任せ、材木の用をなさぬものなれば濫伐の憂えなしとてこの樹を撰み、植えつけしと申す。しかるに、昨今大樫の木に価格出で来たりしゆえ、これを伐らんとて訴訟を起こせしなり。
那智の滝の水源林は寺山と呼ばれました。
寺山は大樫の密林である。水を蓄え、滝の水は一年中、水量が減らない。
那智の滝の水源林が伐採されそうになったとき、伐採されれば那智の滝の水源は涸れ尽くすだろうと警告して伐採を食い止めました。
そのときせっかく熊楠が守ることができたのに、そのあと、戦後に伐採されてしまったというのは、返す返すも残念なことでした。今の那智の滝の水源林は正確な数字はわかりませんが、たぶん80%以上杉桧の人工林です。
滝は枯れ、山は崩れ
さて霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐り尽され、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候。
滝の水源林が伐られたら、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿山となり、地のものが地に住めぬこととなるであろう、と。
那智の滝はいま水量の減少や山腹の崩壊が懸念されていて、熊楠が残した言葉が予言のようになっています。
奇絶峡
ここは神社ではありませんが、奇絶峡という峡谷で水力発電所を作るときに、いずれは多くの観光客が訪れる景勝地となるはずだからと、景観に配慮して工事を進めるよう訴えたりとかもしています。
エコロギーにもっとも有用の所
「奇絶峡は植物活状学に尤も有用の所に候。これはエコロギーと申し、近来発達の学問にこれあり。小生が一昨々年ロンドンで一寸発端を出し置き候如く植物と植物と相互の関係を知る事尤も必要、また植物と動物、植物と無機物との関係を見るにも尤も必要なり。」
奇絶峡はエコロジー(生態学)の研究に役立つ場所だから保全しなければならいとも主張しています。
熊楠は神社合祀反対運動の中でエコロギー、エコロジーという言葉を使いました。エコロジーを日本に初めて紹介した人はまた別の人(東京帝国大学教授の三好学という人)ですけれども、エコロジーという言葉を使って自然保護運動を行ったのは熊楠が日本で最初です。
エコロジーとは元々は日本語で生態学と訳される生物学の一分野です。生物と生物が相互に影響を与えあう、生物と周りの環境とが相互に影響を与えあう、その関係を研究する学問です。 今ではその生態学的な知識を反映させた文化的・社会的・経済的な活動のこともエコロジーといいますけれども、熊楠が使ったエコロジーという言葉にはまだ学問としての意味しかありません。
熊楠が使ったエコロジーという言葉には学問としての意味しかないのですけれども、熊楠が行った神社合祀反対運動は活動としてのエコロジーの先駈けでした。
熊楠の自然保護は神社の森を丸ごと守ることを目指しました。大きな木とか、珍しい草花、珍しい動物とかを保護するというのではなく、すべてを丸ごと守る。森全体を守るというのが熊楠の自然保護の考え方でした。
不用の物なし
世界にまるで不用の物なし。多くの菌類や黴菌は、まことに折角人の骨折って拵えた物を腐らせ悪むべきの甚だしきだが、これらが全くないと物が腐らず、世界が死んだ物で塞がってニッチも三進…
世界に不用な物はないと熊楠は言います。多くの菌類やばいきんというのは、人がせっかく作った物を腐らせる、やっかいなものだけれども、もし菌類やばいきんが全くなかったとしたら物がまったく腐らず、世界は死んだ物でふさがってしまって、どうにもこうにもならなくなる。そのように言っています。
大きなものも、小さなものも、やっかいなものも、多様なものを多様なままに守ろうというのが熊楠の自然保護でした。
フムス
下ばえが腐化してフムス(腐敗土)を形成し、これにミコライザ(根菌)という微細の菌が生じ、その作用にて腐土より滋養分を取り、大なる草木を養成するのが通例なり。
熊楠はとくにフムスの重要性を訴えました。
腐植土
フムスを熊楠は腐敗土とか腐土、腐葉土と訳していますが、今は腐植土と訳されます。動物の遺骸や植物の落ち葉などが腐ってできた土です。
腐葉土なくなり行き
これも例の俗吏が神林を掃除せよと毎々命ずるので、腐葉土なくなり行き、毎年、樟や柯が枯れ行く。
腐葉土なくなるゆえ
小生いわく、下木をきれば腐葉土なくなるゆえ、つまり老大木を枯らす、下木は断じて伐るを禁ずべし、と。
落ち葉を掃除するな、下生えの木を伐るな、と熊楠は言います。
ミコライザ
雑木の濫伐と共に、その辺の土中にありて、常に杉に栄養を供給するミコライザ(共生微菌糸)も全く死滅すべければ、如何なる名木といえども自然枯死せざるや論なし。
腐植土が造成されなくなると木が枯れてしまう、と。腐植土がなくなると、植物の根っこと共生して植物にリン酸や窒素を供給する菌類が死滅して植物は養分を吸収できなくなる、そうすると植物は枯れる。そのように熊楠は言っています。
菌根菌
植物の根っこと共生する菌類を菌根菌といいます。
菌根菌というのはたとえばマツタケなんかがそうです。マツタケは松の木の根っこと共生して、松に養分を送ります。菌根菌という小さな生き物が大きな木の命を支えています。
一尺四方ばかりのうちに
一尺四方ばかりのうちに落葉落ち重なれるにルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワとホンゴーソウ、またXylaria filiformisと覚しき硬嚢子菌混生する処あり。秋になれば帽菌がおびただしく生じ、夜光るものもあり。
これは那智山のクラガリ谷のことを記した文章です。
たとえば、岩窪30cm四方ばかりのうちに落葉が落ち重なっているところに、ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワとホンゴウソウ、またマメザヤタケの一種と思われるキノコが混生する所がある。この1文にものすごいことが書かれています。
ヒナノシャクジョウ
これはヒナノシャクジョウ。全体白いことからわかるように葉緑体をほとんど持っていません。
ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワそれとホンゴウソウ。この4種はみな光合成をやめた、葉緑体をほとんど、あるいは全く持たない植物です。
ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、ホンゴウソウの3種は菌類から養分をもらって生活する菌寄生植物です。
オウトウクワは(今はキヨスミウツボと言いますが、キヨスミウツボ)はアジサイやマタタビなどに寄生する植物寄生植物です。
これらの珍しい植物が30cm四方のなかに生えている。熊野の森の豊かさがこの1文で示されています。
熊野の森の豊かさの象徴とするものとして熊楠は光合成をやめて他の生き物に寄生して生きる植物を挙げました。
光合成をやめた植物の中には他の植物に寄生するものもいれば、土のなかの菌類に寄生するものもいますが、とりわけ熊野の森の豊かさを示すのが菌類に寄生する植物です。
ギンリョウソウ
菌類に寄生する植物で、わりとよく見かけるのがギンリョウソウです。別名はユウレイタケとか水晶蘭とか。
腐植土と菌根菌
すなわちもと葉緑素を具えた緑色の葉が日光に触れて空気から炭酸を取り自活しおった奴が、腐土(フムス)とて木や落葉が腐って土になりかかった中に生じ、いわゆる腐生生活を営むに至ったから、自活に必要な葉緑素を要せず、葉は緑色を失うて鱗片に萎縮退化し了うたのだ。
これは熊楠がギンリョウソウについて書いた文章の中の一節です。
もともと葉緑体を持って光合成して自活していた植物がフムス(腐植土)の中に生じて土中の菌類に寄生して生きるようになって、葉緑体が必要なくなって、葉っぱは緑色を失い、萎縮退化した。
その根を顕微鏡で見ると、微細な菌類と連合しおり、その菌類が腐土から滋養分を取って水晶蘭を養うのだ。
その根を顕微鏡で見ると、微細な菌類と連合していて、その菌類が腐植土から養分を取ってギンリョウソウを養うのだ。
ここでもフムス(腐植土)のことと植物の根と共生する菌根菌のことが書かれています。
豊かな森には、土の中に極めて多様で豊かな菌類の菌糸のネットワークがあります。土壌中に多様な微生物の世界があります。土の中の生物の多様性が、地上の生物の多様性をもたらします。
熊楠は目につかない土の中の菌類の豊かさこそが大切なのだということを訴えていました。
神道
熊楠は日本における自然保護運動の先駆者ではあるんですけれども、守ったのが神社の森ということで、その後の日本の自然保護運動や世界の自然保護運動とは少し違う部分もあります。
熊楠がロンドンにいたときに神道について英語で書いた論文があります。「The Taboo-System in Japan(日本におけるタブー体系)」というもので、そのなかで熊楠は、
「神社や森、川、山々、岩屋などを心のよりどころとする日本古来の宗教である神道」は、「日本人の国民性の基礎」であり、「清廉さの第一の要因」であり、「美徳を生み出す唯一の源泉」であり、「文明の高さの直接の起源」であると述べてました。
「神社や森、川、山々、岩屋などを心のよりどころとする」信仰が日本人の精神性や文化の中心にあるのだとロンドンにいる熊楠は考えました。
ところがロンドンから帰国してみれば、日本では神社合祀なんてことが始まってしまった。熊楠の身近なところでどんどん神社が潰されていきました。熊楠は怒りを覚えました。神社の破壊というのは自然の破壊であるとともに、日本人の精神性や文化の破壊であると熊楠は考えました。
熊楠の神社合祀反対運動は単に自然の保護だけを目的としているのではなく、日本人の精神性や文化を守るための戦いであり、人々の暮らしだとか幸せだとか地域本来の豊かさだとかを守るための戦いでもありました。
熊楠の学問や思想は熊野の森との関わりのなかで育てられてきました。
名は体を表すと言いますが、熊楠という人は、熊野という聖地に生える大楠の精霊のような人だったと思います。
楠の神の申し子
小生は藤白王子の老樟木の神の申し子なり。
昨日の夜、熊楠のTwitterがこの言葉を呟いていました。
今日のお話、最後どうやって締めくくろうかと悩んでいたんですけれども、もうこの熊楠の言葉がいいやと。
小生は藤白王子の老クスノキの神の申し子だ。
以上で、とりあえず私の話を終えます。ありがとうございました。
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「森の案内人・三浦豊 と みんなの森のサロン」シーズン2/19話 「森と熊楠/ゲスト:大竹哲夫さん」2022年1月20日
(てつ)
2022.5.18 UP