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熊代繁里『熊野日記』(現代語訳)

熊代繁里『熊野日記』安政6年4月13日(現代語訳)

この日の日記について

 4月13日は熊野本宮大社例大祭・本宮祭の初日。本宮祭は4月13日から15日にかけて斎行されます。
 13日には湯登神事宮渡神事が執り行われます。この日の日記から幕末の本宮祭の様子がわかります。

安政6年4月13日(現代語訳)

13日 朝霧が深い。卯の時(6時頃)に起き出て人々の詠草をみる。千頴が訪ねてきた。今日は潔斎といって毎年のしきたりで、ここの宮人すべてが湯の峰へ行くので、私にもとそそのかしたので、午の時(12時頃)より光国と連れ立って湯の峰へと行く。

東光寺に着いて湯浴みするが、留湯(とめゆ)といって2つあるのを清めて、今日の料に設けていた。この寺の回りに幕を引きめぐらし、おごそかに供え、大宮司をはじめ本宮はいうまでもなく、あれやこれやの神人たちが稚児を伴って、100人余り集っていた。かわるがわる湯浴み(今日を湯登りともいい、湯に入るのを湯ごりといった)するのを見て、

 みくま野の神の宮人みそぎすとのぼる湯の峯さともとどろに
(訳:み熊野の神の宮の人が湯の峰に登って禊ぎすると、湯の峰の里も大騒ぎになった)

 ますかゞみきよきいでゆのみそぎにも神ならふらんあとはみえけり
(訳:よく澄んでくもりのない鏡のように清い温泉での禊ぎにも神ならふらん?跡が見えた)

未の時(14時頃)が下がるころ、温泉で煮た粥に、蕗や豆腐やとくさぐさを入れた汁を添えて出す。まず2人の大宮司(一﨟という)、次に私繁里、左右の二﨟、三﨟、四﨟、五﨟、中座、西座、その外語会以下の神人、残らず座を定めて食う。とても素晴らしい。昔より今日はこの儀式を行うのが潔斎のしきたりだということだ。かつ聖護院の宮、紀の殿の君などがいらっしゃる折にもこの湯粥を奉るのを古くからのしきたりとしたとのことを大宮司が言った。

食い終えて稚児というが2人に、錦を上の衣を着せ、紅の糸で飾った花笠とかいうようなのをかぶり、この里の宮(本宮の枝宮で、いわゆる薬師の神、大国主命、少彦名命を祀っている。これを薬師という仏に間違えるのはいまいましい)で神楽をする。これを稚児の神楽という。数多の人々が柏手を打つ音、笛鼓の音が神さびている。

終わって帰るときには、左の山路、大日越というのを上るが、道はたいへん険しい。峠より少し下って、月読命(石を立てているのみで社はない)を祀っている傍らに、大日堂がある。仏かと見たが、神のように祀っている。ここでも稚児の神楽が先のように行われた。

また坂を下ると今日のしきたりだといって、

 しらまゆみしらまゆみ、やがていのりの門(かど)おこす、ならの葉音、こがねの鈴こそ、ならしみかぐら、やよありや、さにやぞありや、さにやさに、[1]

と宮人がとりどり歌いながら帰るのも素晴らしい。光国はそのまま神宮の会所へと行く。夕方になって思象がカツオを持ってきて、酒をひとつと言うので「ひじりとおふせしいにしへの」など口ずさみながら、盃も数が増すまま夜になった。

稚児が大宮に詣でて神楽を奉り、それより真名井へ行くのを見にというので鳥居のもとまで行くと、まず稚児、次に大宮司、それより次々の宮人が烏帽子袍で数多付き添い、提灯なども整え、鼓を打ち、笛を吹き、かの白ま弓の歌を歌い、連れていく。見終えて帰ると、千頴が訪ねてきて、また思象らと酒を飲む。今宵の月はとても澄んで美しい。

注記

1. 神歌

しらまゆみしらまゆみ、やがていのりの門(かど)おこす、

ならの葉音、こがねの鈴こそ、ならしみかぐら、やよありや、さにやぞありや、さにやさに、

 この歌は神歌と呼ばれます。
 ここに記された歌はいま歌われている歌とわずかに異なります。歌が変化したのか、それとも誤記でしょうか。
 いま歌われている神歌は以下の通り。

ならのはおととこがねのすずこそならしみかぐら やよありやそうやそ ありやそうやそう

しらまゆみしらまゆみ やがていのりのかどをこそ

 「しらまゆみしらまゆみ…」は囃子詞。今は「ならのはおとと…」のほうを先に歌い、その後「しらまゆみしらまゆみ…」の囃子詞を入れます。

 意味はわかりません。

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(てつ)

2023.4.2 UP

参考文献