弁慶物語 現代語訳6 平家一門
1 弁慶誕生 2 比叡山 3 武具揃え 4 喧嘩修行
5 義経 6 平家一門 7 吉内左衛門 8 脱出
そうこうしているうちに、源氏が滅んだので、浄海(平清盛。出家して浄海と名乗った)は天下を我がままにしなさり、上を見ない鷲のように(鷲は上空からの襲撃を心配する必要がないので上を見る必要がない。何も恐れることなく悠々としている様の譬え)奢り高ぶりなさる。
ところが、義経が平家打倒に決起する時期をお伺いになって、弁慶と主従の契りをお結びになったことをお聞きになり、大いに腹をお立てになり、「あの九郎と申す者は義朝の子であったが、平治の乱の後、義朝は討たれた。そうしているうちに、あの牛若を殺すべきであったのを助けておいたこと、まったく浄海の恩ではないか。その恩を忘れ、当家を滅ぼそうと企み、あまつさえ西塔の武蔵といった不届き者と主従の契約を結び、都の内を巡ったとは。彼ら二人は兵法の奥義を極め、討つにも討つことができず、捕まえるにも捕まえられない。どうしようか」と話し合われた。
本当か、聞くところによると、武蔵は西塔の伯耆の竪者、慶俊の弟子と聞く。行方を知らないことはあるまい。この人を召し捕まえて、会い尋ねようとお思いになり、難波次郎経遠(なんばじろうつねとお。清盛の家来)、瀬尾太郎兼康(せのおたろうかねやす。清盛の家来)に仰せ付けて、三百余騎をお与えになって、西塔へ向けた。
慶俊の僧坊を無理に大勢で取り囲んで、「平家よりの使いである。君は、朝敵の源九郎義経に従う弁慶は、お弟子だとお聞きになり、そのような弟子の面倒を見ることは許されない。とっとと武蔵を出しなさい」と責めた。
慶俊は香(こう。丁字で染めたもの。黄色味を帯びた薄紅色)の衣、香の袈裟を掛け、数珠を指先であやつりながら、立ってお出になり、「そのような者は幼少より寺の中の一人としておりましたが、あまりに悪行が過ぎるので、御山の訴訟により追い出して後は、どこにいるとも、行方を知りません」
「そういうことならば、六波羅へお上がりになりまして、お申し上げください」とおっしゃるので、仕方なく、参ることになったが、
仲間の僧たちが集まって申し上げることには、「なんと私ども凡夫(悟っていない人。凡人)は、父母から受けた生の道理を師匠とあおいで、三十七の諸尊を建立されて、一心の本望を達せられること、これ一心に師匠の御恩である。親は一世(現世)の契り、師は三世(前世、現世、来世)の契り、あの雪山(せっせん)童子の故事に身を投げ、あるいは肘を切られたこと、みな、これは師の恩に報いるがためになしたことと聞く。今のこの世での師を六波羅へ捕らえられて、我らは後に残り、長い年月の繁栄の世を暮らせるだろうか。さあ、体と命を師匠に奉り、三世の御恩に報いよう」と、みなみな同意して、十七、八や二十四、五の若い僧たち二、三十人が武具に身を固め、太刀、長刀の鞘を外し、斬って出ようとしたのを、
慶俊はご覧になって、「これはどういうことか。なるほど、我が身の上で思うと、もっとものことであるけれども、よくよく思案しなさい。まずあなた方が討ち死にすれば、『兵力のことなど気にするまい。この谷は深いか』」と言って、西塔の僧たちさえも立ち上がって合戦になるならば、平家は軍勢を添えられるだろう。
それなれば、国々の軍勢を揃えられるだろう。南都(なんと。奈良のこと)のように滅ぼされるならば(奈良の東大寺や興福寺が平家により焼き討ちにされている)、責任がこの慶俊一人にかかってくるのが道理である。慶俊の不覚であろう。そのうえ、今回の出頭は簡単なことである。武蔵坊を尋ねるべきようなこことでもない。
ありのままに申し上げて、咎がないのに無理に死罪にされるならば、逆らう力はない。そのうえ、慶俊の命はどれほどもあるものではない。たとえいかなる目に会おうとも、どうして我が山(比叡山)に傷を付けようか。
それを顧みないで、合戦に及ぶべきではない。三経の間(特定の三つの経典を習うための部屋か)もことごとく憎悪の炎となり、釈迦の説法も修学も廃れ、都も、弓矢などの武器を好んで行使する者のために、真理と正しい行為の地(寺院)は、たちまちに合戦修羅の場所となり、心が痛み、我が山を失うことが口惜しい」と、泣いたり脅かしたりして、止めなさるので、「この上は力はない」と言って、その日の戦は止まった。
慶俊が御心にお思いになったことには、よい弟子を持つのも前世から定められたことである。しかしながら、あらゆることは師匠が信頼した上でのことであるので、悪い者も棄てがたいのが世の習いであるので、弁慶がどこかに忍び出て、平家方へ捕われて辛い目にあうのだろうかとお悲しみになるのが哀れである。
そうこうしているうちに、慶俊は馬を引き寄せ、乗って、六波羅目指して急がれた。見る人はみな、哀れだと言わない人はいなかった。
御曹子と武蔵坊とは、北山(京都市北部の諸山の総称)の奥、岩屋の内にいらっしゃったが、このことを聞き、弁慶は御曹子の御前にかしこまって申し上げたことには、
「私は幼少の時、西塔の伯耆の竪者、慶俊に面倒を見ていただきましたが、あまりに不届きなので、一山の訴訟により勘当されました。その後は立ち入ることはないけれども、私のために咎なき老僧を召し捕り、六波羅へ引かれなさると承りますので、あまりにかわいそうですので、師匠の命の代わりましょう。同じように御曹子が天下をお治めになるのを見申し上げませんことは不本意に思いますけれども、お暇を申し上げたいのです」と申し上げたので、
御曹子はお聞きになり、「父義朝の家臣である鎌田が討たれなさったことでさえ、この世にまたとない悲しいことと思っていたが、あなたがそのように申すのは、ただ義経の運が極まったと思われる」と仰せになったので、
「どのような御心配事があるのでしょうか。私がこのようになりますとも、国々の侍どもがいくらでも参りましょう。そのなかに弁慶に勝った者もどんなにか多いことでしょう。そのようにお思いになってください。
武蔵めも罪状を厳しく問いただされ、死罪にされますとも、迷妄の世界の僧職に就いているときには、私の魂は私の心にままにさせてください。
死して後の魂魄は御曹子の思いのままでございますので、悪霊のような番人となり、平家の一門を取り殺し、源氏の御代をお守り申し上げるので、何の煩いがありましょうか。
このように申し上げてはおりまけれども、死ぬ死なぬは弁慶の思いのままでございます。まずお暇を頂戴しましょう」と、御前に立った。
「お止めになるのは三世の主君、行くは三世の師匠のため」と、邪険で、気ままな弁慶も一字千金(一字でも千金の値に匹敵すること。ここでは、師匠の恩が厚いことの譬えとして使っている)の御恩を思うと、ワニの口のように危険な場所だとは知りながら、六波羅へ急いだ。
まず都の近辺で古い仲間のいたところへ立ち寄り、「弁慶は慶俊のお命に代わろうと思って、敵の中へ行きます。この太刀と武具を御身に預け申し上げる。六波羅で罪状を厳しく問いただされ、死罪にされたとお聞きになるならば、取るに足らない形見とお思いになり、死後を弔ってください。もし、また思いがけずも帰ってきたならば、こちらに返してください」と言って、太刀と武具を預けおいて、武蔵のその日の装束は丹生染め(赤い土で染めること)の衣、柿染め(渋柿で染めること。赤茶色になる)の袈裟(丹生染めの衣、柿染めの袈裟ともに山伏の装束とされた)、山を照らすような紅葉のように鮮やかな螺緒(かいのお。山伏が右腰に付ける紐)に、頭巾(ときん。山伏がかぶる布製の小さな頭巾)を眉のなかばにかかるくらいにかぶって、一尺六寸の打刀を差し、褐の脚絆に、ごんづ草鞋(ごんずわらじ。藁草履の一種)を締め履き、慶俊を召し捕り、勇んで帰る敵のなかに走り入り、慶俊がお乗りになる馬のみづつき(馬の轡の一部分。手綱を取り付けるところ)に取り付き、東西をきっと睨みまわし、「そもそも慶俊はどこへお入りになるのですか」。
慶俊はお聞きになり、「そのことだが、夢にも存知申さぬ九郎御曹子とやらに、武蔵坊弁慶が同意する事情を問おうとして、六波羅へ召されます。このようにおっしゃるのは誰か」。
弁慶は聞き、「私は幼少の時、御坊におりました若一法師でございます。万一、御祈祷などにお入りになるのでしたら、背丈こそ小さくとも、寺の小坊主たちをお考えになってください。お供申し上げましょう。九郎御曹子のことを聞くためならば、行方も御存じではない老僧より、弁慶のほうが詳しく存じております。御曹子のことを尋ねるためには、慶俊をこれよりお帰し申し上げ、弁慶を召し捕って行けよ」と言って、眼を八角煮に見出し、睨みまわしたので、瀬尾は二人とも召し捕りたいものだとは思うけれども、この法師を荒立てては、師匠とともに奪い返して帰ろうとする面魂が表に現れて見えたので、「あなたさえいらっしゃれば、老僧はお返し申そう」と言って、それより慶俊をお返し申し上げる。
そのとき、弁慶は師匠の御前にかしこまり、「弁慶は捕らえられますならば、きっと厳しく問いただされ、死罪にされるでしょう。今が最期のことでございますので、ご勘当を許してください。黄泉路(よみじ。死後の世界へ行く道)の障害ともなりましょう」と、涙を流し申し上げたので、慶俊はお聞きになり、「お名乗りになると、そのようなことがあった。久しく対面しないので、その人とは思いも寄りませんでした。しかしながら、最近、寺にお立ち入りにならない者ゆえに、私の命の身代わりになられようとは、少しも思い寄りません。たとえあれこれあって誅せられ申し上げるとしても、この歳になって命は惜しくない。御身のことは盛んな年齢であるので、私の死後をも弔ってください」とおっしゃるので、
弁慶は、「たとえ慶俊がお帰りにならなくとも、兵士どもが私を逃すまい。とても逃れぬものなので、早く早くお帰りください。そうであれば、ご勘当をお許しください」と、涙を流し申し上げたので、「そうしたことであるからにはやむを得ません。勘当のことは、いったん衆徒の訴訟により、しばらく身を隠しなさいと申しました。勘当まではしなかったけれども、許すと言えとおっしゃるので、確かに許し申し上げると言おう」と、互いに涙を流し、師匠は山へ帰られた。
いかにも鬼神のような弁慶も、師匠のために、おめおめと左右の腕を差し出し、邪険な縄にかけられた。哀れなことであった。
弁慶が心に思うことには、ああ、あわれな奴らだ。生け捕ったと喜んで、気負い立って騒ぐおかしさよ。これくらいの縄は引き切って、難波、瀬尾の細首をねじ切り、残りの取るに足らぬ武者めらは思うに大したことはないだろう。足にまかせて蹴散らして、御曹子のお住まいへ走ることは簡単だけれども、ついでに、平家の一門どもを見たいものだと思って、六波羅を目指して行ったが、戒められているとも思わないで、あなどって笑って、六波羅の庭の白洲で仁王立ちに立っていた。
強いて座らせようとしたけれども、少しもゆるがずに立っていたので、「上(かみ。ここでは高位の人)の御前であるのに仁王立ちはけしからぬ」と声々に言ったので、「神とは何か。伊勢か、熊野か。平家のことであるならば、誰が知らないことがあろうか。桓武天皇の末とは言いながら、代々王孫に下り、都では高平太(たかへいた。高下駄を履いた平家の太郎という意味)と言って笑われた人が、今は安芸守(あきのかみ。安芸は今の広島県西部)清盛、入道(剃髪して在家のまま仏道修行する者)になっては太政の入道浄海という人であるのだろう。
弁慶も天智天皇の御末、堤の大納言の御末裔、鈴木党の中心で、熊野の別当弁心の子、西塔の武蔵坊弁慶であるので、家柄は勝ってはいても決して劣るまい。誰を恐れ慎んで身を屈もうか」と言ったので、浄海は腹をお立てになり、「その法師を門外に突き出せ。打って張れ」とおっしゃるので、「承知しました」と言って、突き出そうとするけれども、少しも動かない。御一門の人々は「噂に聞く武蔵坊を見よう」と言って、残りなく並び座りなさる。
弁慶は縄持ち(罪人の縄を取って追い立てる役目の者)に小声で言ったことには、「おぬし、弁慶を思いのままに動かせなければ、人目が悪く見えてしまう。思いのままに動かそうと思うならば、弁慶の言うことを聞け。そういうことならば、あなたの思いのままに従い、体面をよくしてやろう」と言ったので、「どんなことでございましょう」と申し上げたので、そのとき、弁慶は、「あの連座に並んでお座りしていなさる一門を、誰々と教えよ」と言うと、「それは簡単なこと」と言って申し上げたことには、
「まず左に正座なさるのは、小松殿(平重盛。清盛の嫡男)、右大将宗盛(むねもり。清盛の三男)、三位の中将重衡(しげひら。清盛の五男)、新中納言知盛(とももり。清盛の四男)、その他の人々である。
右の一座は平大納言時忠(ときただ。清盛の妻時子や後白河院の女御建春門院滋子の兄)、三河守教盛(のりもり。忠盛の四男、清盛の弟)、越前の三位通盛(みちもり。教盛の嫡男)、能登守教経(のりつね)、蔵人の大夫業盛(なりもり。教盛の三男)、修理の大夫経盛(つねもり。忠盛の三男、清盛の弟)その他の人々である。侍には越中の前司盛俊(もりとし。清盛の腹心の部下)、上総守(藤原忠清)、常陸守(未詳)、悪七兵衛(あくしちひょうえ。藤原景清、忠清の子)、藤内左衛門(とうないさえもん。後藤内定経)、吉内左衛門(きちないさえもん。橘内左衛門尉季康)、原の小藤太(はらのことうだ。未詳)、その他の人々」と、通称、本名ありのままに語った。
武蔵坊が思うことには、ああ、敵だ、よい敵だ。あらゆるところ、すみずみまで、念を入れて思いをかけて、この人々であることを覚えておこう。あそこで持っている長刀で金がよさそうに見えるのを、走りかかって奪い取り、斬りやすそうな浄海の細首を打ち落とし、左も右も一門である、どの人と区別することもない。一人ひとり薙ぎ伏せて、かかってくる奴らを思いのままに斬り伏せて、立派な館に火はかけまい。御曹子をお入れ申し上げ、白旗をさっと立てて、我慢していた源氏どもが私とともに討って出ることは思うままであると思われ、付けている縄をねじ切ろうと思った。
心を変えて思うことには、あれほど御曹子が軽率に謀叛を起こすなと、くりかえしくりかえし仰せになっていたのだ。それを用い申し上げないで、ここで合戦に及ぶならば、恐れ多いことだと思ったので、「目の前にいる敵を助けておくのは無念である。見れば腹も立つ。さあ、あなたも長く立っているので、膝の節も痛いだろう」と言って、縄持ちを引き立てて瀬尾の館へ入った。
浄海はこの様子をご覧になって、「ああ、恐ろしいありさまだ。かねて聞いていたよりも、見て興味が醒めた。今は入道になっていると思って、安心もできない。お前たちに簡単に捕らえられて来たのは、ただ事ではない。近くに置くな。用心せよ」とおっしゃるので、大門小門を差し固め、用心厳しく見えたのは、弁慶を恐れるからである。
(てつ)
2003.7.6 UP
2019.7.9 更新
参考文献
- 新日本古典文学体系55『室町物語集』