弁慶物語 現代語訳3 武具揃え
1 弁慶誕生 2 比叡山 3 武具揃え 4 喧嘩修行
5 義経 6 平家一門 7 吉内左衛門 8 脱出
JR紀伊田辺駅前の弁慶像
心の中で思ったのは、どうせ叡山で愚か者の名を取り、追い出される上は、日本国を回って、喧嘩修行をしよう。天下に弁慶ほどの者はなく、唐土へ渡り、中国全土、残るところなく回り、喧嘩してみて、もし武蔵坊ほどの者がなければ、仏法に帰依し信仰を深くして果ててしまおう。また、我が国に弁慶ほどの者があるならば、現世来世に深く主従の契を交わそう。
結局のところ、喧嘩修行をするには、太刀、刀を待たなくては願いを叶えることはできまいと、都三条の小鍛冶(こかじ。伝説的な鍛冶師。通常、宗近(むねちか)と称する)の流派に鍛冶の上手な職人があったので、その住まいに行き、「私は右大将殿のお使いです。五尺八寸の大太刀(六尺前後の大きな太刀)、三尺三寸の打刀(うちがたな。敵を打ち斬るための刀)をお打ちください。他ならぬ私がその命令の担当者である」と言って、責めつけて打たせた。
もとより弁慶は金属のことをよく見知っていた。少しの瑕(きず)でもよく鍛え直せ」と言って、総じて弁慶は経典にも経典以外の書にも暗くなく、もとより口は達者であった。真実と嘘を取り混ぜて、天竺(インド)、震旦(中国)、我が国のことを乱暴に矢継ぎ早に語りに語ったので、この物語に聞き取られて、日数が過ぎていくのもわからず、100日ほどを過ごした。
その間に、太刀、刀は打ち立てて弁慶に渡した。
弁慶が申し上げるには、「さあ、同道してください。お供して引出物を差し上げましょう」と言って、太刀も刀も人には持たせず、弁慶が持って行ったが、とある唐門(からもん。唐破風をもち、唐戸をつけた門)に立ち寄り、「しばらくお待ちください。申し入れて、すぐに引出物を差し上げよう」と言って、門の内に入り、築地を跳ね越えていなくなってしまった。
そういった次第で件の鍛冶は今か今かと待ったけれども、本当ではないので、来たりもしない。その日も夕暮方になったので、その家の人に事情を言った。
「これは狂人か、盗人か、物が憑いて狂っているのか」と咎められて恐れおののいて帰った鍛冶の心は、滑稽である。
弁慶は傍らで独り言して坐っていた。
「太刀と刀は問題ない。ただし、研ぎあげた金具がないと、見苦しいだろう。思い出したことがある。五条の吉内左衛門延貞(きちないざえもん・のぶさだ)のもとに行き、研がせてみよう」と言って、その住まいに行き、「これは小松殿(平重盛。清盛の嫡男)よりの仰せである。研ぎと金具作りの上手な職人を選ぶように仰せつけられています。心をこめて、丁寧におやりください。これで奉行して、こしらえさせよとの仰せです」と言ったので、そのころ、平家の仰せであることは、少しもおろそかにすることはできないと、急ぎ丁寧にこしらえて、今に始まったわけではない弁慶の好みのままに意匠を凝らして組み立て作る。
太刀の目貫(めぬき。刀身が柄から抜けないように止める金具)は竹に虎、刀の目貫(めぬき。刀身が柄から抜けないように柄の上から刀身まで貫いて止める金具)は獅子に牡丹、覆輪(ふくりん。刀の鞘などを金銀などで覆う飾り)、切羽(せっぱ。刀の鍔にが柄と鞘に接する場所にはめ付ける薄い金具)ことごとく心も及ばないほどに作らせて、「さあ、同道してください。延貞。小松殿にお供して、この程の御苦労、御骨折りのことを申し上げ、引出物を差し上げよう」と言って、連れて行った。
「御佩刀(おんぱかせ。貴人の刀剣の敬称)、お腰の物を人に持たせましょう」と申し上げたたところ、失礼がないようによそおって「主人の御佩刀を人に持たせて参上したならば、よいだろうか」と言うので、強いて申し上げるには及ばないと思って、後に付いて行ったところ、弁慶が言ったことには、「素晴らしい金細工の職人よ、よい金細工の職人よ、すばらしい職人だ、よい職人だ。上様のお召しにならないうちに、誰かに見せよう。まこと、思い出した。私の仲間に日本一の物好きの者がある。見せてすぐに帰ろう」と言って、小路の中で待たせて、走り寄る風情で、行方知らずになっていなくなってしまった。
延貞は、今か今かと日暮れまで待っていたが、あまりに遅くなったので、小松殿に申し上げたところ、「思い当たらない」と言われたので、「結局、恥をかくのだろうか」とバタバタと逃げて帰った。
弁慶が心に思ったことには、太刀と刀はこしられたけれど、具足(ぐそく。武具)がなくてはどうしようもない。思い出したことがあると言って、七条に三朗左衛門吉次(よしつぐ)といって、腹巻(鎧の一種。非常時に備えて直垂の下に着用した)細工の職人がいたが、行って申し上げることには、「源氏兵庫頭頼政(ひょうごのかみ・よりまさ)よりのお使いである。『出仕のとき、直垂の下にお召しになるためである。黒糸威(くろいとおどし。黒糸で威した鎧)の腹巻、左右の小手、脛当(すねあて)まで急ぎこしらえてくだされ』と、わざわざ私を担当者にして遣わされた」と、札(さね。綴じ合わせて鎧を作るための、鉄や皮で造った細長い板)ごしらえから始めて、思いのままに威らせて、雲に竜の左右の小手、白檀磨き(金箔の上に漆を塗って磨き、白檀のような光沢を出すこと)の脛当までも光るほどにこしらえた。
弁慶が申し上げることには、
「このようにこしらえなさるけれども、重すぎたり軽すぎたりしたら、私どもも面目を失ってしまう。依頼した人の具足の重さは、だいたい覚えていますので、まず着てみましょう」と言って、小手、脛当をさし固め、腹巻を取って投げかけ、高紐(たかひも。鎧の胴の前の部分と後ろの部分とを結ぶ紐)、上帯(うわおび。腰の辺りで鎧を締め上げる紐)をむんずと締め、五尺余りの大太刀を佩き、三尺三寸の打刀をまず十文字に差して、九寸五分の鎧通し(反りのない短刀)を右の脇に差したまま、件の大太刀をすらりと抜き、鞠の懸かり(蹴鞠をする場所の四隅に植えてある木)に躍り出て、
「いま少しこの具足は重いように思われる。重い具足をお召しになったらば、どうして早業をされることができるだろうか。まず、私が走ってみよう」と言って、平下駄を履きながら、八尺の築地を踊り越え、天を駆けるか、地をくぐるかと、ただ走りに走って行方知らずになって、いなくなってしまう。
腹巻細工の職人は夜更けの夢の心地がして、「あれあれ」と言ったけれど、その甲斐なく、呆れ果てて坐っていた。
そうした次第で、武蔵坊は心を変えて思うことには、浅ましいことだ、仏の御前で保った偸盗戒を破ってしまった。
本当であろうか。聞けば、渡辺の源馬之丞行春(げんむまのじょう・ゆきはる)という者は、京や田舎で有名な裕福な人と聞く。そこへ行って宝を乞い、三人の者どもの引出物に与えようと思って、武蔵坊は件の腹巻に左右の小手を差し、脛当をし、長刀を杖に突き、馬之丞の館に入ってみると、四方に大掘を掘らせ、櫓(やぐら)を上げ、乱杭(らんぐい。乱雑に打ち並べた杭。縄を張りめぐらして、敵の進入を防ぐ)、逆茂木(さかもぎ。とげのある木の枝を柵に取りつけたりして、敵の進入を防ぐもの)を引き、万一のときに手に取るべきものと思われて、武器がびっしりと置いてあった。
そうであるけれども、武蔵は人を人とも思わないので、庭の白洲を静々と歩み、広縁(ひろえん。母屋の外側の廂の間)のそばに近づいて見ると、行春は綾紫(あやむらさき。いろいろな地模様を織り出した絹で紫色に染めたもの)に朽葉(くちば。かさねの色目のひとつ。表は赤味がかった黄色、裏は黄色)を重ねて、精好(せいごう。縦を練り糸、横を生糸で、あるいは縦横ともに練り糸で織り上げた、地が細かで美しい織物)の大口(おおぐち。袖の細い肌着。あるいは袂の小さい肌着)に黄金作りの刀を差し、万一の用と思われて、槍、長刀を立てて並べ、今にも酒宴が終わるように見えて、種々の肴(さかな。つまみ)に瓶子(へいじ。徳利)を添え、すごろくを打っていたところに、武蔵坊が申し上げるには、「私は春から熊野に参る修行者である。糧米が尽きてしまいました。蔵をひとつお与えください」と言う。
行春はこれを聞き、腹を立てて、「これはどうしたことか。修行者という者は仏道に帰依する心があってもなくても、衣を着、袈裟を懸けて、飢えに臨んだときは、飯と酒を乞うのは習慣である。それほどのことでなくとも、武具を身に付け、蔵を乞うのは、どう見ても、盗賊、強盗の類いではないか。若侍どもはいないか。縛れ、くくれ」と言ったので、武蔵坊は聞き、「不思議なことを言う者だな。衣装に物を与えるのか。衣装で判断して物を施すかどうか決めるのならば、何でも着よう。それを口出ししたところで、どうにでもなるものではない。くれなければ、くれないまで。何を盗み奪い取り、盗賊強盗の印と見えたのか。おのれらに物を見せてやろう」と、広縁に躍り出て、打物を抜いてかかったところ、言葉にも似ずに、内を目指して逃げて行った。
太りすぎた男で、逃げようとするけれど、追いつめられ、殺すのは罪深いと思ったのだろうか。太刀の切っ先を首の辺に押し当てて、「何を申すか、早く申せ」と言ったところ、「何とも申し上げません」と言う。
若党どもはこれを見て、「きっと天狗が来たのだ。または堅牢地神(けんろうじじん。大地を守護し、これに堅牢な力を与える神)の御仕業か。近くに寄って過ちをするな」と、近づき寄った者はない。
行春の女房は迎えて3日になったが、あまりの悲しさに人目のことも思わず走り出て、武蔵の袂にすがりついて、「もしもし客僧、下衆徳人(げすとくにん。身分は低いが、財を貯えて勢いのある者)のくせとして、人を見知り申し上げず、粗野にものを申し上げるのを私に免じてお許しください」と言って、ひたすらに武蔵に詫びた。
その間に、馬之丞は内に逃げて、戸を立てて、震えて坐っていた。女房が言って、「どれほど御負傷していらっしゃるのでしょうか」と言うと、行春は迎えてまだ3日の女房なので、恥ずかしく思ったのだろうか、「ここまで来たのを逃げたなどと決して思いなさるな。侍が反対に死を選ぶことは、とても簡単だけれど、お前をいま一度見てからどうにでもなれと思って、ここまで来たのである。ただし、この法師の切っ先が背中に当たると思われたのは、斬られたのか、斬られなかったのか」と言おうとしたが、あまりに慌てて言うのに、「御坊の太刀の切っ先が背中に当たると思われたのは、背中は後ろになったのか」と申し上げた。これを聞いて、傍らで笑う者は多かった。
そうしているうちに、武蔵坊は内まで入り込み、物に腰を掛け、扇を抜いて持ち、草摺(くさずり。鎧の腰部)、とんとんと調子よく打ち、今様(当時の流行歌)をひとつ歌った。
「思へば、この世はほどもなし、栄華は皆これ春の夢、草葉の上に置く露の風待つほどの命なり。かゝる憂(うき)世に住みながら何とて宝を惜しむらん」と歌ったところ、
女房がこれを聞いて、「仰せの通り、私どもは前世の宿縁により、今生、有徳(金持ち)の身となりましたけれども、しかるべき高徳の僧侶もいらっしゃらないので、教化を蒙ることもありません。有為転変(ういてんぺん。この世のあらゆる物事は因縁によって生じたかりそめのもので、常に移り変わるということ)の憂き世の中とは知りながら、有為(因縁によって生じたこの世のあらゆる現象)の宝に目を塞がれて、仏を供養し僧に物を施す営みはまったくありません。御利益方便のために、仏のお計らいで、忍辱の衣の上に甲冑を帯び、愚かで道理をわきまえない私どもを仏法を勧めようと、神仏がこの世にお姿を現わしになったと思われます。宝は御必要なだけお受け取りください」と申し上げる。
武蔵はこれを聞き、「ああ、女房は殿に似ないで、良い善人でいらっしゃることだ。それほどまではなくてもよいから、少しばかりの援助をいただきましょう。同じことなら、蔵の内を拝見して、必要な分量を示し申し上げましょう」と言って、武蔵は蔵へ入った。
女房を先に立てて、どの蔵の戸も開き、多数の宝を見せたので、米と銭のことは申すに及ばず、道具、絹布の類、その他、唐土、天竺の宝は数え切れなかった。沈香の木切れ、麝香腺、金襴緞子(きんらんどんす)、画賛の物、ありとあらゆる宝物があり、ない物はなかった。
しかしながら、「宝は欲しくない。染め物を30人に持たせてお与えください」と言ったところ、「簡単なことです」と言って、人夫を揃えて持たせた。
武蔵はこれを受け取り、「御心ざしのほど、言い表わしがたく喜びいっております。これからも遠慮しないで、いつでも同じようにお願い申し上げましょう」と言って、30人の人夫を召し連れて、京へ帰って、10人分は金細工の職人に取らせ、10人分は鍛冶屋、10人分は具足細工職人に与えて、、「みなみな、以前の仕事の賃である」と言ったので、3人の者どもは思いの他に宝を儲け、たいへん喜んだ。
その後、武蔵殿、熊野へ参った道で、寺院内の講堂に上がり、一夜を送ったが、夜半頃に目が覚めて奇怪なことを聞いてしまった。
強盗どもが集まり、御堂の内に充満して、酒を飲み、飯を食べていた。
大将と思われる者が進み出て、申し上げることには、「あなたがたはどう思うか。今夜は初仕事である。これというほどの所に入っても、無駄なことになるに違いない。改めて良い日を選び、人を集め、もっともふさわしいであろう所へ討ってでよう。いつがふさわしいであろうか」と言ったところ、ある者が言ったことには、「誰々と申すとも、渡辺の源馬之丞(げんばぼじょう)ほど金持ちの人物は決してあるまい。彼らのもとへ」と言ったので、人々はこれに同意して、「今日より3日後の午の刻(午前11時から午後1時の間)に」と決めて、方々へ散ってしまった。
弁慶は堂の下手で、このことを聞きすまし、「ああ、この源馬之丞は大果報者であることよ。多くの宝を与えてくれたので、ここで恩に報いよう」と決心して、熊野詣を変えて、渡辺へ急いだ。
源馬之丞は武蔵を見て、気力も体から離れてしまい、震え震えて内に入り、女房に言うには、「情けないことだ。また例の鬼坊(鬼のような坊主)がここへいらっしゃっています。どうしようか」と言ったところ、女房は聞いて、「臆病であることよ、源馬殿、あのように勇猛な人にはよいようにさえ接して従えば、かえって味方となるのに。心得ください」と言ったので、「もっともなことだ」と申し上げて、いかにも立派に飯をこしらえて、武蔵坊に勧めた。武蔵はたいへん喜んで、思いのままに食して、もとより大酒飲みのことなので、何度も受けて、心にまかせて飲んだ。
その後、手や顔を洗い清め、持仏堂にお入りになり、法華経を読誦しなさる。声明の尊さはとても言葉に言い表せないほどである。聴聞して心からありがたく思い喜ぶ人も、「鬼坊」とは言わないで、たいそう尊んだ。
例の午の刻にもなったので、辺り一帯が騒ぎ立ち、「何事だろうか」とお問いになると、「四方に武者どもが満ち満ちて、きっとここへ寄せてくるかと思われます」と言ったので、女房は武蔵の前に来て、「ひとえに御坊を頼み申し上げます」ということを申し上げた。
弁慶は聞いて、「心得申し上げています。それがしにお任せあれ」と言ったので、おおいに喜んで、四方の櫓へは若党を上げて、今や遅しと待ち受けた。
いくらも経たないうちに、押し寄せ、鬨(とき)の声をどっと上げて、早くも矢合(やあわせ。合戦の初めに敵味方双方から射られる矢)をした。行き違える矢は途切れる間もない。互いに大声で叫んで戦うこと、なかなか言葉でも言い表わし尽くすことはできない。
そうではあるけれども、弁慶は波が立つとも風が吹くとも思わない。何事もないような態で、法華経の八巻め(最終巻)にさしかかり、時が移るほど読んだ。
「一乗(唯一の真実の教えの言葉)の妙文は一偈(げ。仏徳や仏法を讃える詩句)一句(真理を表わすひとつの言葉)、一念随喜(一途な信仰に備わる喜び)の結縁(けちえん。仏道に縁を結ぶこと)でさえも五波羅蜜(五つの彼岸に至る方法)の経にも勝る。ましてや一偈読誦の霊験の力がどうして軽くありましょうか。敵味方隔てなく、討ち死にする人々は、皆々、成等正覚(菩薩が修行を成就して悟りを完成すること)、頓証菩提(すみやかに悟りを得ること)」と菩提を弔い、数珠をさらさらと押し揉んで、感激して、顔をしかめて泣き顔になった。
その後、弁慶が四方の櫓へ言うことには、「人を出して逃げる真似をして、敵を内に引き入れて、あとから門を閉ざせよ」と言う。「了解」と申し上げて、人を出して、少々は武具を脱ぎ捨てさせ、門から内へ逃げさせた。寄せ手の手勢はこれを見て、「内は馬場であるぞ。ただ参れまいれ」と言いながら、大庭を目指して乱れ入る。
武蔵のその日の装束は、褐(かちん。濃い紺色)の鎧直垂(よろいびたたれ。鎧の下に着る直垂)に、黒糸威の腹巻を綿噛を取って投げかけ、揺すぶって、上帯をきちんと締め、雲に鶴の左右の小手、白檀磨きの脛当、五尺余りの太刀を佩き、一尺六寸の打刀、九寸五分の鎧通しを右手の脇に差していた。三間木(三間の長さの木の棒。1間は約1.8m)を脇に挟みこんで、大庭を目指して躍り出て、将棋倒しをするように、皆ことごとく打ち伏せる。
そのときに、若党どももここかしこから出て、散々に叩いた。小門から入る手勢を、これもあとから門を閉ざす。一人も洩らさずに、思いのままに叩いた。すでに早くも三間木も打ち砕けたので、具足に傷を付けまいと思って、走り帰って、金剛杖を手に取って、頭と足元を薙いだ。
源馬之丞はこれを見て、「ああ、尊い御事だなあ。鬼坊ではいらっしゃらず、仏御坊でいらっしゃるのだなあ」と、夫婦の者はともに手を合わせて拝んだ。戦が終わって、その後、死人を一ケ所に取り集めたところ、皆で127人である。
太刀、刀を取り集め、杜(もり。木がこんもりと繁ったところ)のように積み重ね、馬之丞に与え、「これこれ、見てください、人々よ。以前の染め物のお代に、これを差し上げましょう」と言ったので、馬之丞は喜び、女房に向かって言うことには、「お前の計らいがなければ、この御坊にも近づかなかっただろう。この御坊に近づかなければ、この度の夜盗にはみな財宝をきっと取られてしまっただろう。財宝だけではよもあるまい。二人の命も危ない。日頃は鬼坊と思っていたが、今は行春にとっては福御坊でいらっしゃる。今から後、どこへもいらっしゃらず、ここにおいでになってください」と留めたけれど、留まりもしない。
さて、行春は都に上り、小松殿へ申し上げることには、「あまりに国に悪党が多く、秩序がなく乱雑でありますので、多くの悪党を滅ぼしました」ということを申し上げると、「立派である」と言って、御感をいただき、そのうえに褒美にあずかったので、「めでたい」と言って、我が家に帰る。「これも御坊のおかげで、名を上げた」と、声高に騒いだ。
(てつ)
2003.6.2 UP
2019.7.9 更新
参考文献
- 新日本古典文学体系55『室町物語集』