熊野生まれの熊野の育ちの武将・平忠度の母と妻
平忠度(たいらのただのり:平忠盛の六男。清盛の異母弟。?~1184)は熊野生まれの熊野の育ちと言われ、熊野川沿いの音川が生誕の地と伝えられます。
平忠盛が熊野に来たときに熊野の女性を見初めて結ばれ、忠度を生んだのでしょう。
忠度の母
忠度の母については『平家物語』巻一の「鱸(すずき)の事」に以下のように記されています(現代語訳てつ)。
忠盛はまた上皇の御所に仕える女性を恋人に持って通われたが、あるときのその女房の局に、端のところに月を描いた扇を忘れてきたので、仲間の女房たちが「これはどこからの月影だろうか。出所があやしいですねえ」と笑い合った。すると、かの女房は、
雲居よりただもりきたる月なればおぼろげにてはいはじとぞおもふ
(訳)雲間からただ漏れてきた月なので、並大抵のことでは言うまいと思います。
と詠んだので、忠盛はこれを聞いて一層愛情が増した。似たもの夫婦といった風情で、忠盛も風流だったが、かの女房も優雅だった。薩摩守忠度は母はこの女性である。
この話は後から創作されたものらしいですが、この話の通りだとすると、この女性は熊野から京に出て忠度を愛を受け、子を宿してから熊野に戻り、忠度を生んだということになりそうです。
忠度は歌人として名高く、その父も母も歌の道に優れていたのだということにしたくて、この話が創作されたのでしょう。平忠度の歌についてはこちら。
忠度の妻
また忠度の妻も熊野出身の女性でした。
忠度の妻は、第18代熊野別当湛快(たんかい)の娘で、第21代熊野別当湛増(たんぞう)の妹。
忠度が一の谷で討たれてから1年後、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)2月19日の条には以下のような記事があります(現代語訳てつ)。
その後、熊野山領の三河国の竹谷・蒲形両庄のことで、その決定があった。当庄は、開発領主散位俊成が熊野山に寄進したことから始まり、熊野別当湛快(※第18代熊野別当)がこれを領掌し、女子に贈与した。
件の女子は初め行快僧都(※後に第22代熊野別当)の妻であった。後に前の薩摩守の平忠度朝臣に嫁ぐ。忠度が一谷において誅戮された後、没官領(もっかんりょう:平家が没落・滅亡した際に朝廷によって没官された所領。その多くが後に源頼朝に与えられた)として、武衛(※源頼朝)が拝領なさる地である。
それなのに、領主の女子が元の夫の行快に懇望させて言うには「早く事情を関東に愁い申し、件の両庄を元に戻したい。もしそうなれば、将来、行快と自分の間にできた子息に譲ろう」と。この契約について、行快僧都が熊野より使者(僧栄坊)をよこして言上したところである。
行快というは、行範の一男、六条廷尉禅門為義の外孫である。源家においてそのつながりは特別である。よってもとより重んずるところであり、この愁訴を、あれこれいうことなく聞き入れた。また御敬神のためでもある、と云々 。
熊野の女性は強かったのだなあ、と感じさせる記事です。
ついでながら、その2日後『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)2月21日の条には以下のような記事があります(現代語訳てつ)。
平家が讃岐国志度の道場に籠もる。廷尉(※源義経)が80騎の兵を率い、かの所に追い到る。平氏の家人田内左衛門尉が廷尉に帰伏す。また河野の四郎通信、30艘の兵船を粧い参加する。義経主がすでに阿波の国に渡る。熊野の別当湛増が源氏に合力せんがために同じく渡る。とのことを今日洛中で伝え聞いたと。
熊野水軍が源氏方として参戦したことが京で噂となりました。
(てつ)
2011.8.29 UP
参考文献
- 佐藤謙三校注『平家物語 (下巻) 』 角川文庫ソフィア
- 梶原正昭・山下宏明 校注 新日本古典文学大系『平家物語(上)』 岩波書店
- 吾妻鏡元暦2年2月 - 三浦三崎ひとめぐり