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剣巻(つるぎのまき)現代語訳2 源頼光

剣巻 現代語訳2

1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝 
6 源義経
 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ

 源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。

源頼光

源頼光と四天王(歌川国芳画)
源頼光と四天王(歌川国芳画)

宇治の橋姫

こうして嫡子の摂津守頼光の代になって、不思議なことが様々多かった。中でも1つの不思議には、世間で多くの人が消失することがあった。死んでも消失はしない。座敷に連なって集まっている中で、立つとも見えず、出るとも見えずして掻き消すように消失したのだ。行く末もわからず、どこにいるのか話も聞こえなかったので、恐ろしいという外ない。上は帝一人から下は万民に至るまで、騒ぎ恐れたことは申し上げるまでもない。

これを詳しく尋ねると、嵯峨天皇の御世に、ある公卿の娘があまりに嫉妬深くて、貴船の社に詣でて七日間籠って申し上げたのに、「帰命頂礼貴船大明神、願わくは七日籠った験に、私を生きながら鬼神にしてくださいませ。妬ましいと思っている女をとり殺したいのです」と祈った。貴船大明神は哀れと思われたのだろうか、「まことにお前の申すところは不憫である。本当に鬼になりたいのならば、姿を改めて宇治の川瀬に行って21日漬かりなさい」と示現があった。

娘は喜んで都に帰り、人が来ない所にたて籠って、長い髪を5つに分けて5本の角に仕立てた。顔には朱を指し、体には丹を塗り、鉄輪を頭に戴いて鉄輪の3つの足には松を燃やし、松明をこしらえてその両方に火を点けて口にくわえ、夜更け人が寝静まった後、大和大路に走り出て、南を目指して行ったところ、頭から5つの火が燃え上がり、眉は太く、お歯黒を塗っていて、顔は赤く体も赤かったので、まさに鬼の姿に異ならず、これを見た人は肝魂を失い、倒れ伏して、死なないということがなかった。このようにして宇治の川瀬に行って、21日漬かったところ、貴船大明神の計らいで、生きながら鬼となった。宇治の橋姫とはこれに違いない。

さて、妬ましいと思う女、その女に縁のある人、自分を嫌って避ける男の親類境界、上下も選ばず、男女をも嫌わず、思うさまに取り失う。男を取ろうとしては女に姿を変え、女を取ろうとしては男に姿を変えて取った。京中の者は貴賤に関わらず、申の時(午後3時~5時)を過ぎると、家に人を入れず、外に出ることもなかった。門を閉じて朝を待った。

その頃、源摂津守頼光の内には、渡辺綱・坂田公時・碓井貞光・卜部末武といって四天王が仕えていた。中でも綱は四天王の随一であった。武蔵の国の美田という所で生まれたので、美田源次と申した。一条大宮という所に、頼光はいささか用事があったので、綱を使者として遣わされた。

夜暗くなっていたので髭切を帯かせ、馬に乗せて遣わした。そこに行って尋ね、問答して帰ったところ、一条堀川の戻り橋を渡ったとき、東の端に齢20余りと見える、肌は雪のように白く、非常に仄暗い姿をした女が、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖にお経を持って、人も連れず、ただ1人南へ向いて行った。

綱は橋の西の端を過ぎたのを、はたはたと叩きながら、「やや、何処へ行かれる人でしょう。我らは五条辺りに行くのですが、たいそう夜が更けて怖い。送ってくださいませんか」と馴れなれしそうに申したので、綱は急ぎ馬から飛び下りて、「この御馬にお乗りください」と言ったところ、女が「嬉しいことです」と言う間に、綱は近くに寄って女をかき抱いて馬に乗せて、堀川の東の端を南の方へ行ったところ、正親町へ今一二段程も出ない所で、この女が後ろを振り返って、「本当は五条の辺りにはさしたる用もございません。私の住処は都の外でございます。そこまで送ってくださいませんか」と申したので、綱が「承りました。どこまでも進んで御座所へ送り届けましょう」と言うのを聞いて、すぐに姿を厳しく変えて、恐ろしげな鬼になって、「いざ、私の行く所は愛宕山だ」と言うやいなや、綱の髻(もとどり)を掴み下げて、北西の方へ飛んで行った。

綱は少しも騒がず件の髭切をさっと抜き、上の方で鬼の手をふっと切った。綱は北野の社の回廊の星の上にどうっと落ちた。鬼は手を切られながらも愛宕山へ飛んで行った。 さて、綱は回廊から飛び下りて、髻に付いている鬼の手を取って見ると、雪のような姿と変わって、黒いこと限りなかった。白い毛が隙間なく生い茂って銀の針を立てたようであった。

これを持って参上したところ、頼光は大いにお驚きになって、不思議なことだとお思いになり、「晴明を呼べ」と言って、播磨守安倍晴明を呼んで、「どうしたらよいか」と問うたところ、「綱は7日間休暇を賜って謹慎してください。鬼の手はよくよく封じ置いてください。祈祷には仁王経を講読させてください」と申したので、その通りに行われた。

6日目の黄昏時に、綱の宿所の門が叩かれた。「どこからか」と尋ねると、「綱の養母、渡辺にいたのが上京したのです」と答えた。その養母と申すのは、綱の伯母であった。人を遣わして言うのは、悪いようにお思いることもあろうと思って、門の際まで立ち出て、「思いがけない上京でございますけれども、7日間の物忌みの最中でございまして、今日は6日になります。明日まではどんなことがございますともお会いできません。宿をお取りになってください。明後日になったならば、家にお入れ申し上げましょう」と申したところ、母はこれを聞いてさめざめと泣いて、

「どうしようもないことです。しかしながら、あなたを母が産み落としたときから受け取って、養い育てた志をどのようだと思うだろう。夜でも安心して寝ることもせず、濡れた所に私が臥し、乾いた所にあなたを置き、4つや5つになるまでは、強い風にも当てまいとして、 いつか我が子が成長して、人に勝れて立派になることを見たい、聞きたいと思いつつ、夜昼願った甲斐があって、摂津守殿の御内では美田源次と言ったら肩を並べる者もいない。 上にも下にも褒められているので、喜ばしいとだけ思っているが、都と田舎とは遥かに遠い道のりなので、いつも都へ上ることもない。見たい会いたいと、恋しいと思うことこそは親子の中の欺きです。この頃続いた夢見も悪かったので、不安に思われて、渡辺から上ってきたけれども、門の内にも入れてもらえない。子に親とも思われない私の身の、子と恋しいことは儚いことです」

綱は道理に責められて門を開いて入れた。母は喜んで今までのことやこれからのことを物語し、「ところで、7日の物忌みと言ったのは何事でしょうか」と問うたので、隠すことでもないのでありのままに語った。母はこれを聞き、「さては重い慎みでございましたね。それほどのこととも知らずに怨んだのは悔しいことでした。とはいえ親は守りであるので、別のことはまさかないでしょう。鬼の手とかいうのはどのようなものなのでしょうか。見たいものです」と申された。

綱が答えて言うには、 「容易いことではございますが、固く封じておりますので、7日過ぎなければ見ることはできません。明日暮れましたらお目どおりしましょう」母が言うには、 「まあいいでしょう、それならば見なくても用事は済みました。私はまたこの暁の夜が明けないうちに下りましょう」と怨み顔に見えたので、封じている鬼の手を取り出し、養母の前に置いた。

母は繰り返し繰り返しこれを見て、「ああ恐ろしい。鬼の手というのはこのような物なのですね」と言ってそのまま置いておくようにして、立つざまに「これは私の手なので取るぞ」と言うやいなや恐ろしげな鬼になって、空に上って破風の下を蹴破って虚ろに光って消え失せた。

それから以降、渡辺家の家を作る時には破風を立てず、東屋作りにするとかいうことだ。綱は鬼に手を取り返されて、7日の物忌みを破ったとはいえども、仁王経の力によって別の支障はなかった。この髭切を鬼の手を切って後、「鬼丸」と改名した。

山蜘蛛

同年の夏の頃、頼光は瘧病(おこり、熱病)にかかり、どんなに瘧鬼を払い落とそうとしても落ちなかった。後には毎日発病するようになった。発病すると頭は痛く、体は火照り、天にもつかず地にもつかず、 中にうかれて苦しまれること、30日余りに及んだ。ある時また高熱が出て、少し熱が下がってきたので、看病していた四天王の者どもも、みな私室に入って休んだ。

少し夜が更けた頃に、幽かな蝋燭の影から、身長7尺くらいの法師がするすると歩み寄って来て、縄をさばいて頼光に付けようとした。頼光はこれに驚いて、がばっと起き、「何者が頼光に縄を付けようとするのだ。悪い奴だな」と言って、枕に立て置かれていた膝丸を取って、はたと切った。四天王どもが聞きつけて、我も我もと走り寄り、「何事でございますか」と申したので、しかじかとおっしゃった。

灯台の下を見たところ血がこぼれていた。手々にかがり火を持って見ると、妻戸から簀子へ血がこぼれていた。これを追っていくと、北野の裏に大きな塚があった。その塚へ入ったので、すぐに塚を掘り崩してみると、4尺程もある山蜘蛛であった。縛って連れて来ると、頼光は 「穏やかではないことだな。この程度の奴に誑かされて30日余りも苦しめられたのが不思議だ。大路に曝せ」と言って、鉄の串に刺して河原に立てて置いた。これ以降、膝丸を「蜘蛛切」と号した。

 

 

(てつ)

2019.9.19 UP

参考文献