剣巻 現代語訳9
1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝
6 源義経 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ
源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。
源義経
さて、九郎大夫判官義経は平氏の捕虜どもを引き連れて関東へ下向したが、梶原の讒言によって腰越に関を据えて鎌倉へは入れなかった。判官は不本意に思って、起請文を書いて度々送ったけれども用いられなかった。力及ばず空しく都に上ったとき、箱根権現に参って、「兄弟の仲を和らげてください」と、薄緑の剣を寄進された。
土佐房昌俊は都に上り、暗殺しようとしたけれども、判官が悟られて、し損じて、土佐房は鞍馬の奥・僧正谷に籠ったのを、鞍馬法師がと昔のよしみがあったので、からめ取って判官に奉った。中務丞知国(なかのつかさのじょうともくに)に命じて六条西の朱雀にて殺させた。関東より重ねて討手が上洛との由が聞えたので、義経は500余騎を従えて船に乗って西海へお趣きになったが、大風に逢って難波の浦にさすらい、静という白拍子ばかりを連れて芳野山に入り、その後北陸道にかかり奥州まで落ち下り、秀衡入道を頼んで3、4年を過ごした。文治4年4月29日、泰衡に500余騎にて攻められると、判官は、「泰衡に向って軍してもどうなろうか」と、女房22歳、若君4歳、1歳の姫とともに我が身31歳で自害して亡くなった。兄弟の仲も直らなかったので、剣を箱根権現に寄進されても、運が尽きたものと思われた。
曾我兄弟の仇討ち
建久4年5月28日の夜、相模国の曾我十郎祐成、同五郎時宗が、親の敵・祐経を討ったとき、箱根の別当行実の手より兵庫鎖の太刀を得たので、思いどおりに敵を討った。この太刀は、九郎判官が箱根権現に寄進された薄緑という剣で、昔の膝丸である。親の敵を心のままに討ち果たして、日本五畿七道に名を揚げ、上下万人に誉められたのも、この剣の功徳であると聞こえた。
源頼朝のもとへ
その後、この膝丸は鎌倉殿に召し上げられた。鬚切・膝丸は2つで一揃いで、多田満仲が八幡大菩薩より賜った源氏重代の剣なので、しばらくの間中絶したときがあっても、終には一所に経廻って、鎌倉殿のもとに返ってきたのはまことにめでたいことであった。
(てつ)
2020.3.25 UP
参考文献