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剣巻(つるぎのまき)現代語訳7 三種の神器

剣巻 現代語訳7

1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝 
6 源義経
 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ

 源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。

神璽

そもそも帝王の御宝に神璽・宝剣・内侍所という3つがある。

およそ神璽と申すのは、神代より伝わる代々の御帝の御守で、験の箱に納めていた。この箱を開けることはなく、見る人もない。これによって後冷泉院の御時、どう思ったのだろうか、この箱を開けようとして蓋をお取りなられたところ、たちまちに箱から白雲が立ち登りになった。ややあって雲は元のごとく箱の中に返ってお入理になった。紀伊内侍が蓋を覆ってからげ納め奉った。「日本は小国だといえども、大国に勝ることはこれである」と申した。一天の君万乗の主さえも御心に任せずして御覧になれない物なので、まして凡人、一般庶民は言うまでもない。

神璽とは神の印(おして)という文字である。神の印(おして)というのは、どのような事情で帝王の御宝となったのかははっきりしない。詳しくこれを尋ねると、我が朝の起りより出たものである。天神7代の初め、国常立尊(くにのとこたちのみこと)が「この下に国がないはずがあろうか」と、天沼矛(あめのぬぼこ)を降して大海の底をお捜りになると、国がなかったので矛をお引き上げになると、矛の滴が落ち留まり、凝りかたまり、島となった。吾が朝の出で来る前表で、大海の浪の上に「大日」という文字が浮んだ。文字の上に矛の滴って島となったので、大日本国と名付けた。淡路国は日本の始めである。

国常立尊より3代は、男の姿だけで顕れて女の姿はなかった。第4代の泥土煮尊(うひぢにのかみ)より第6代の面足尊(おもだるのみこと)まで3代は、男と女の姿で顕れたが、夫婦婚合の儀はなかった。第7の伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊尊(いざなみのみこと)が淡路国に下りて男女婚合があらわれた。山石草木をお植えになった。大八島の国を造り、次に数々の国を造り、また世の主がないはずがあろうかと、1女3男をお生みになった。いわゆる日神・月神・蛭子・素盞鳴尊なり。

日神と申すのは、伊勢大神宮、天照大神がこれである。月神と申すのは、月読尊、高野丹生大明神と号す。蛭子は三年まで足が立たなかった尊でいらっしゃったので、天の磐樟船(あまのいはくすぶね)に乗せ奉り、大海が原に押し出だして流されになられたが、摂津国に流れ寄り、海を領ずる神となって、夷三郎殿とお顕れになって、西宮におわします。素盞鳴尊は、御意が荒いため出雲国に流され、後には大社とおなりになった。さて、伊諾・伊冊尊は、国を天照大神に譲り、山を月読命に奉り、海を蛭子に領させなさった。素盞鳴尊は「分領なし」とされ、御兄達と度々合戦に及んだ。これによって絶縁されて雲州へ流されたのだ。

さて、天照大神は日本を譲られながら、心のままに動かすことはしなかった。第六天の魔王と申すのは、他化自在天に住して、欲界の六天を我がままに領ずる。しかも今の日本国は六天の下である。「我が領内なので、我こそが国を動かすべきところだが、この国は大日という文字の上にできた島なので、仏法繁昌の地であろう。これより人はみな生死を離れるに違いない。だからここには人を住まわせず、仏法をも弘めずして、ひとえに我が私領としよう」と天照大神の支配を許さずにいたので、天照大神は力を及ばすことができず、31万5000年を経られた。

譲りを請けながら星霜が積ったので、大神は魔王にお会いになって、「日本国を譲りのままに許されるならば、仏法をも弘めず、僧・法をも近付けまい」とおっしゃったので、魔王は心が解けて、「左様に仏法僧を近付けまいと仰せられる。ならばさっさと奉ろう」とて、はじめて日本を赦し与えたとき、「手験に」と言って印を奉った。これが今の神璽である。

宝剣

次に宝剣と申すのは、神代より伝わった霊剣が2つある。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・天のはば切の剣(あめのはばきりのつるぎ)である。天の叢雲剣は、代々帝の御守、即ち宝剣である。天武天皇の御時、朱鳥元年6月に尾張国熱田の社に奉納された。また天のはば切の剣はもとは十柄の剣(とつかのつるぎ)と申したが、大蛇を斬って後は、天のはば切の剣と号した。大蛇の尾を「はば」というためである。「をろち」とも名が付いた。かの剣は後には大和国石上布留の社に納まった。

昔、素盞鳴尊が出雲国にいらっしゃったとき、かの国の簸の川上の山に大蛇がいた。尾も首もともに8つあった。8つの尾は8つの谷に蔓延った。眼は日月の如し。背には苔が生えて諸々の木や草が生えていた。毎年、人を呑んだ。親を呑まれては子が悲しみ、子を呑まれては親が悲しんだ。村のあちこちで泣き声が絶えなかった。国中の人がみな取り失われて、今は山神の夫婦、手摩乳(てなづち)・脚摩乳(あしづち)だけが残っていた。夫婦に1人の娘がいた。稲田姫と名付けて生年8歳であった。これを中に置きつつ、たとえようもないほど泣き悲しんだ。

尊は憐れみなさって、理由をお尋ねになった。手摩乳が答へて、「我に最愛の娘がいる。稲田姫と申し上げるが、今夜八岐の大蛇に呑まれることを悲しむのだ」と申したので、尊は不憫に思われて、「娘を我に与えたならば、大蛇を討ってとるがどうだ?」とおっしゃると、手摩乳・脚摩乳は大いに悦んで、「大蛇をさえお討ちくだされば、娘を差し上げましょう」と申したので、尊は大蛇をお討ちになる謀をおめぐらしになった。床を高く掻き、稲田姫を立派に着飾らせて、髪飾りに湯津爪櫛(ゆつのつまぐし)を差して床の上に立たせ、四方には火を焼き廻らして、火より外に甕に酒を入れて八方に置いた。

夜半に及んで八岐大蛇が来て稲田姫を呑もうとすると、床の上にいるが四方に火を焼き廻らしているので、近寄ることができなかった。時移るまで能く見れば、稲田姫の影が甕の酒に映って見えたので、大蛇はこれをよろこび、8つの甕に8つの頭を漬けて、飽くまで酒を飲んだ。あまりに飲んで酔って、前後不覚に眠った。尊は剣を抜き持って大蛇をずたずたにお切りになった。その8つ目の尾にお切りになると剣に当たるものがあった。怪しんでこれをご覧になると、剣の白刃が見えた。尾を裂き開いて、これを見ると、中に一つの剣があった。「これは最上の剣である」と、天照大神に奉った。天叢雲剣と名づく。この剣、大蛇の尾にあったとき、黒雲が常に覆った。故に天叢雲剣と名付けた。この大蛇は尾より風を出し、頭より雨を降らす。風水龍王の天降ったものであった。

内侍所

手摩乳は姫の助かったことを喜び、尊を婿に取り奉った。そのとき、円さ3尺6寸の鏡を引出物に奉った。稲田姫が尊のもとに参るとき、髪飾りに差した湯津爪櫛を後様に投げて、始めて尊にお参りになった。別れの櫛とはこれのことである。尊は出雲国に宮作りして稲田姫を妻室とし、婚合しなさった。兄達と不和のことを心苦しく悪しく思われたのだろうか、蛇の尾より取り出した天叢雲剣、並びに天のはば切の剣、手摩乳が婿の引出物とした鏡、以上3種を天照大神に奉って、絶縁は赦された。かの婿の引出物の鏡が、今の内侍所である。

3つの鏡

人皇第4代の帝・懿徳天皇(いとくてんのう)の御時、天より3つの鏡が降った。そのうちの1つは婿の引出物の鏡であった。2つには天照大神が天の岩戸に閉じ籠もりになられたとき、我が形を鋳移し留めて、「子孫はこの鏡を見ては我を見るが如くに思え」といって、模しなさった鏡である。はじめに鋳なさったのは小さいといって、また鋳直しなさった。はじめの御鏡は、紀伊国の日前宮にお祀りされた。後の御鏡は、伊勢国二見の浦の1里ばかりの沖に岩に副うて御座すが、潮の満ちるときは岩の上にあがり、潮の干る時はさがって岩に副うておはします。海が凪いでいるときは船でおし渡りて、先達がいて拝むのだ。

婿の引出物の鏡は内侍所である。帝の御守にて大内に御座すのを、第10代の帝・崇神天皇の御時、同殿であってはならないとして、殿を作り、鏡を鋳て、新しいのを御守とし、古いのを天照大神にお返し申し上げた。鋳移しなさった御鏡も、作り替えられた宝剣も、霊験は少しもお劣りしなかった。

 

 

(てつ)

2020.3.24 UP

参考文献