剣巻 現代語訳8
1 源満仲 2 源頼光 3 源頼基、頼義、義家 4 源為義 5 源義朝、頼朝
6 源義経 7 三種の神器 8 天叢雲剣 9 源頼朝のもとへ
源氏重代の名剣をめぐる中世の物語『剣巻』を現代語訳。
日本武尊
しかしながら12代の帝・景行天皇40年の夏、東夷が多く御政を背いて関東が静まらなかった。帝の第2の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)は御心も猛く御力も勝れていらっしゃったので、かの皇子を遣わして平げさせることとなったが、同年冬10月に出立して、まず大神宮にお参りになった。天皇の命に随って東攻めに赴く由を倭姫尊(やまとひめのみこと)に申し上げたところ、崇神天皇のときに返し置かれた天叢雲剣をお出しになった。日本武尊はこれを帯して東国にお下りになったが、道中で不思議なことがあった。出雲国にて素盞鳴尊に害せられた八岐大蛇が天降り、無体に命を失われ、剣を奪われた憤りを散ぜず、いま日本武尊が帯して東国に赴きになるのを、せき留めて奪い返すために、毒蛇となって不破の関の大路を伏し塞いだ。尊は事ともせず、躍り越えて通られた。
尾張国に下りて、松子の島という所で、源大夫という者の家にお泊りになった。大夫に娘がいた。名を岩戸姫といった。顔だちが美しかったので、尊はこれを召された。一夜の契りを深くして互に志は浅くなかった。女とここにいたいとお思いになったけれども、夷を攻めに下る者が女に付いて留まるのは悪かろうと思われたので、帰るときにまたと憑んで、すぐさま出立された、
駿河国富士の裾野に到る。その国の凶徒が「この野には鹿が多くおります。狩してお遊びください」と申したので、尊はすぐに出てお遊びになったが、凶徒等が野に火を着けて尊を焼き殺し奉ろうとしたとき、お帯きになった天叢雲剣を抜いて草をお薙ぎになると、苅草に火が付いておびやかしたので、尊は火石・水石といって2つの石をお持ちになっているが、まず水石を投げ懸けられたところ、即ち石より水が出て火は消えてしまった。また火石を投げ懸けられたところ、石中より火が出て凶徒は多く焼け死んだ。それよりその野を天の焼けそめ野と名付け、叢雲剣を草薙剣と申すようになった。
尊は振り捨てになった岩戸姫のことが忘れがたく心に懸かったので、山が重なり、が重なっても志の由をかの姫に知らせようとして、火石・水石の2つの石を、駿河の富士の裾野より、尾張の松子の島へ投げられた。かの所の紀大夫という者の作っている田の北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落ちた。2つの石が留まる夜、紀大夫の作っている田が一夜のうちに森となって、多くの木が生ひ繁った。火石の落ちた北の方には、いかなる洪水にも水が出ることなく、水石の落ちた南の方にはどんな旱魃にも水が絶えることがない。これは火石・水石の験である。
尊はこれより奥へお入りになって、国々の凶徒を平げ、所々の悪神を鎮め、同53年尾張へ帰り、岩戸姫に御再会した。そのままここにいるわけには行かないので、都へお上りになったが、「草薙剣を紀念とせよ」と岩戸姫にお渡しになったのを、「我、女の身なので、剣を持って何をしましょうか。あなたが持ってお上りください」と申されたので、「思うところがある」と、桑の枝に懸けて、尊はお上りになった。
そうこうしているうちに、八岐の大蛇、伊吹大明神は、尊に跳り越えられて留められなかったことを不本意に思って、前よりももっと大きく高く顕れて大路をお塞ぎになった。尊はなおも事ともされなかった。走り越えてお通りになったところ、お引気になった足の先が大蛇にちょっと触ったので、それより間もなく熱が出て、五体身心忍びがたく、臥そうかとお思いになったけれども、心強くいらっshったので、悩みながら近江国までお越えになった。道の辺に水が流れ出て冷しく清潔であったので、端にある石に腰をかけて、水に足をさし降してお冷やしにしなったところ、たちどころに熱が醒めた。そのことからこの水を醒井と名付けた。
熱は醒めたれども、御悩が重かりければ、捕虜の夷を大神宮に奉り、武彦を遣わしてこの由を奏された。尊はなお近江国千の松原という所に悩みお臥しになっていたところ、松子の島にお宿りになった岩戸姫は尊の名残りを惜しみつつ、在りもあられぬ心地がしてお尋ねに上られて、近江の千の松原に来られた。尊は悩みながら思い出だされて、恋しく思っていたところに、岩戸姫が来られたので、あまりの悦ばしさに、「あは、妻よ」と、大いにお悦びになった。それより東国を「吾妻」と名付けた。
このようにして日数をお送りになるうちに、尊は御悩が重くなられて、終にお亡くなりになった。白鳥となって南を指してお飛びになった。岩戸姫は、尊の別れを悲しんで、悶え焦がれたけれども、その甲斐がないことなので、泣く泣く尾張国へお帰りになった。尊に仕える人々が別れを悲しみ奉って、跡を付いて行くと、白鳥は紀伊国名草郡にしばらく降りて留まったが、この所を悪しく思ったのか、東国に飛び返り、尾張国松子の島に飛んで行った。白鳥となってお飛びになったときは、長さ1丈の2流の白幡と見えた。尾張国に飛び降った。その所を白鳥塚と名付けた。幡の落ちた所を幡屋といって今もある。兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故か、この幡屋にてお生れになった。
熱田神宮
草薙剣を桑の枝に懸け置きになったのを、岩戸姫がこれをとり、紀大夫が田が一夜の内に森になった社の杉に寄せ掛けて置かれたが、夜な夜な剣より光が出たので、その光が杉に燃え付いて焼け倒れた。田に杉が焼けて倒れ入ったので田も熱かったろうという心から熱田と名付けた。日本武尊は、白鳥になって飛び落ちて神になる。今の熱田大明神がこれである。岩戸姫も満ち足りず別れた中なので、すぐに神となって顕れ、源大夫も神となり、紀大夫も同じく神となって顕れた。
さて草薙剣は宝殿を作って置かれたが、夜な夜なに剣に光が立った。知法行徳の人でなければ見ることはない。新羅の沙門・道行といった高僧が、日本に立つ剣の光を見て、帝に語ったところ、「何ともしてその剣を取って我に与へよ」と仰せられたので、「それでは取って差し上げましょう」と、日本に渡った。尾張の熱田に詣でながらかの剣を7日の行を行って盗み取って、五条の袈裟(※五幅の布を縫い合わせて作った袈裟)に包んで逃げたところ、剣が袈裟を突き破って元の宝殿に返り入った。14日の行をして剣を取り、七条の袈裟(※七幅の布を横に縫い合わせた袈裟)に包んで逃げたところ、剣はまた七条をも突き破って宝殿に返った。道行はなお立ち返って、21日の行をして今度は、九条に包んで出たところ、袈裟を破ることができず、筑紫の博多まで逃げ帰りったのを、熱田明神はおもしろくないことだとお思いになり、住吉大明神を討手に下し、道行を蹴殺して草薙剣を奪い取った。
新羅の帝は生不動という将軍に7つの剣を持たせて日本へ渡した。生不動は既に尾張国まで攻めて来た。熱田の神宮は悪い奴だと蹴り殺してしまわれた。所持の7つの剣を召し取って、草薙剣に加えて宝殿にお祭りされた。今の八剣の大明神とはこれである。
代々このようにしてあったが、後の宝剣も霊験をお取りにならなかった。平家が取って都の外に出て、二位殿が腰にさして海に入った。上古であったら、失わなかったであろう。末代こそ心苦しい。潜きをする海人に命じてこれを求めさせ、水練を召して尋ぬたけれども見つからなかった。龍神がこれを取って龍宮へ納めてたので終に見つからなかったのだ。
その頃ある人が夢に見た。草薙剣は風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞鳴尊に害せられ、所持する剣を奪われた。この風水龍王は、伊吹大明神であるから不破の関で蛇となって、日本武尊が伊勢大神宮より天叢雲剣を賜わって東夷のために下国するのを留め取らろうとしされたがかなわず、御上りのときを待ちうけて、奪い返そうとされたが殺された。生不動が8歳の帝となって現れて、元の剣は叶わなくても、後の宝剣を取り持って西海の波の底にお沈みになった。終に龍宮に納まったので、もう見ることはできないという夢であった。
(てつ)
2020.3.25 UP
参考文献