藤原為家が詠んだ熊野関連の歌
藤原為家(ためいえ、1198~1275)。
祖父は藤原俊成で、父は藤原定家。
若い頃は蹴鞠に夢中で、歌道には熱心ではなかったのですが、承久の乱後、本格的に詠歌に励みました。権大納言・民部卿まで進みましたが、康元元年(1256)、病いにより出家。建治元年(1275)、75歳で没。
後嵯峨院の下命による『続後撰集』『続古今集』の2つの勅撰集の撰者であり、『続拾遺集』では最多入集歌人。家集に『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』などがあり、『詠歌一躰』などの歌学書も残しています。
『中院詠草』より6首
1.康元元年(1256)、59歳のときの歌
五月雨 熊野山二十首
五月雨(さみだれ)はゆくさきふかし いはた河渡る瀬ごとに水まさりつゝ
(訳)五月雨でゆく先々でこれからますます深くなっていきそうな岩田川。渡る瀬ごとに水かさが増さっていくよ。
「ゆくさき」に「行く先々」と「将来」とを掛ける。
(夏 33)
2.宝治元年(1247)、50歳のときの歌
寄滝恋 宝治元年、院百首
を(お)となしの滝の水上(みなかみ)人とはば しのびにしぼる袖やみせまし
(訳)音も立てずに流れ落ちる音無の滝の源流とはどのようなものかと人が尋ねたら、忍んで声を立てずに流す涙に濡れて絞っている私の袖を見せたらよいだろうか。
(恋 85)
3.康元元年(1256)、59歳のときの歌
寄老述懐 熊野山二十首
なげくぞよかゞみのかげの朝ごとにつもりてよする雪と波とを
(訳)歎かれることだ。鏡に映る自分の顔の、朝ごとに増えていく、雪のような白髪と波のように刻まれた皺とを見るにつけ。
(雑 145)
4~6.神祇歌3首
神祇 本宮、熊野山二十首
君がため三(み)つの鏡に顕はれて あきらけき世やさだめ置おきけん
(訳)我が君のため、三つの神鏡(熊野の三神)として顕現(垂迹)して、曇りなく明らかな御世を定めおいたのか。
垂迹とは仏が仮に神となって現れること。
本地垂迹思想についてはこちら。
(雑 155)
同 那智、同
やまふかみさぞたかゝらし 都まで音にきこゆるなちの滝つせ
(訳)山が深いので、さぞ高いらしい。都まで噂に聞こえている那智の滝は。
「たかゝらし」は「高くあるらし」の縮約表現。「音」は滝の縁語。
(雑 156)
同 同、心経字五首
うけよ神むなしととける法(のり)をえて ひとつに祈るやまとことの葉
(訳)神よ、どうか受けてください。一切は空であると説いた般若心経の教えを得て、心ひとつに祈る大和言葉のこの和歌を。
心経は「摩訶般若波羅蜜多心経」の略。
(雑 157)
先の2首は康元元年(1256)、59歳のときの歌。3首めは正嘉2年(1258)、61歳のときの歌。
(てつ)
2003.6.5 UP
2020.8.29 更新
参考文献
- 新日本古典文学大系46『中世和歌集 鎌倉篇』 岩波書店